仏山での前半生とは? わかりやすく解説

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仏山での前半生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 16:25 UTC 版)

葉問」の記事における「仏山での前半生」の解説

本名継問といい、広東省南海人である。葉一族は仏山では桑畑綿花畑、製糸工場などを経営しており、裕福な家の次男として生を受けた。兄と姉が一人ずつ、妹が一人の6人家であった1904年詠春拳入門時、師である陳順(中国語版)は54歳葉問11歳であり、陳順にとっては最晩年弟子にあたる。直接武館には通わず、家の祖師堂に師を呼んで銀1両半で米60キロ買え時代に、月額銀8両という高額な月謝支払って個人教授受けていた。 陳順が亡くなったのちも「葉問最後まで詠春拳修行できるように」と師が兄弟子達へ遺言したことによって修行続けられる事となる。陳順の代わりに面倒を見たのは葉問にとって兄弟子にあたる呉仲素。既に仏山線香街で詠春拳の武館を開いていたため面倒を見るとなった。この時に呉仲素の計らい広州派詠春拳伝承者の阮奇山とも交流しながら拳技磨いた1909年16歳葉問香港留学赤柱に現在もある聖士提反書院St. Stephen's College)で、科学興味覚え外国語数学など勉学勤しんだ。留学の間は詠春拳練習中断せざるを得ない状況であったが、詠春拳基本の型である小念頭、尋、標指という3つの套路制定したといわれる贊(英語版)(1826~1901)の実子璧(中国語版)と出会い留学期間中詠春拳稽古する機会を得る。1918年仏山戻った葉問警察官の職についたのち、張永成と結婚。7人の子女をもうけたが3人は夭逝し2男(準(中国語版)、正(中国語版))2女が残った1937年日中戦争が始まると家は日本軍接収され邸宅日本軍司令部となり、裕福な暮らし送っていた葉問45歳家族とともに仏山離れた1941年48歳時には友人の周清泉息子耕をはじめ7人に初め詠春拳教授することになる。長男準によると、父葉問助け請わない人間だったが他人助ける人だったといい、息子武術を習うよう無理強いすることはなかった。 戦争終結後国民党政権下では警察局刑偵隊隊長、督察長、広州市衛戍司令部南区巡邏上校隊長などを歴任。しかし1949年国共内戦激化共産党政権掌握至って国民党要職にあったことから身の危険感じた葉問は、身分証明書の名前も「溢」に変え妻子残したままマカオ経由香港逃亡亡命)した。

※この「仏山での前半生」の解説は、「葉問」の解説の一部です。
「仏山での前半生」を含む「葉問」の記事については、「葉問」の概要を参照ください。

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