今宮祭の変遷
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創祀以来、今宮神社に対する朝廷・民衆・武家からの崇敬は厚く、平安時代から鎌倉時代にはもっぱら官祭として執り行われた。12世紀半ばには政情不安から祭りが衰えていき、やがて開催自体が途切れたが、13世紀半ばには復活し、その後は室町時代を通じておおむね毎年営まれたとされる。『康富記』の応永8年(1401年)5月9日条には、御旅所(おたびしょ)に関する記述が初めて登場し、また祭礼の費用は氏子地域の地口銭から捻出されていたとされる。同応永29年(1422年)5月14日条には、鉾に関する記述が初めて登場する。剣鉾は京都の祭礼に多く見られる、悪霊を鎮める目的がある御霊会でもっとも重要な祭具であり、坂本博司は祭礼に剣鉾が関わる神社として33社を紹介している。南北朝時代から室町時代には都市の民衆が主体となった都市祭礼に変化していき、郊外の本社から町中の御旅所に神輿を迎えると言う形態が成立したとされるが、祇園祭(八坂神社)、稲荷祭(伏見稲荷大社)、松尾祭(松尾大社)、御霊祭(上御霊神社・下御霊神社)に比べるとやや遅い成立といえる。 15世紀-16世紀には、京の町が応仁の乱や戦国の兵乱などに巻き込まれ、神社自体の荒廃もあって今宮社の祭礼が中止されることも多かった。応仁・文明の乱(1467年-1478年)では今宮神社も焼失したが、『宣胤卿記』によると文明13年(1481年)には既に祭礼が復活していたことが確認できる。1593年(文禄2年)に豊臣秀吉は今宮社の御旅所を再興し、神輿1基を寄進。中世には5月7日に神幸が、5月9日に還幸が行われていたが、慶長12年(1607年)には還幸日が5月15日に変更され、祭日は5月7日と5月15日となった。近世に入ると京織物の産地として西陣が台頭し、徳川幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の尽力で今宮祭は華やかさを取り戻した。桂昌院は西陣生まれの産子であり、今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったという。毎年今宮祭の日には江戸の大奥で将軍とともに祭事を行ったとされ、1694年(元禄7年)には御牛車や鉾を寄進したほか、祭事の整備や氏子区域の拡充、やすらい祭の復興など様々な施策を行った。近世には『日次記事』、『年中行事絵巻』(第11巻 今宮祭)、『華洛細見図』などに今宮祭の様子が記録されており、1705年(宝永元年)に描かれた『宝永花洛細見図』(巻1 今宮祭礼図)には三本の鉾を先頭にした神幸祭の行列が描かれている。17世紀の神輿巡幸路は大宮通を軸として北大路通、上立売通、小川通、元誓願寺通などで組み立てられ、現在よりも狭い区域に限定されていた。 近世の今宮祭は現在と似通った形式で行われていた。5月7日に3基の神輿が剣鉾などを従えて氏子区域を巡幸し、8日間御旅所に駐輦(ちゅうれん)。5月15日には御旅所から再び氏子区域を巡幸し、御供所(ごくしょ)で神事を行って本社に還幸した。後述する12本の鉾の他には牛車などが列に加わり、神輿駐輦中の御旅所は参詣する氏子でにぎわったという。剣鉾を出す鉾町12町、祭礼の実施を財政的に援助する寄町6町、御旅所と御供所が所在する3町、持ち回りで祭礼を取り仕切る行事町は、いずれも西陣地区に位置した。両組は寛永15年(1638年)頃まではまとめて西陣組と呼ばれ、今宮祭の維持・運営を中心的に担っていた。西陣以北の地域は田畑が広がる農村地域だったが、やはり今宮神社の主要な祭礼のひとつであるやすらい祭の運営を主体的に行っていた。西陣以南の地域が今宮神社の氏子区域に含まれるようになった経緯は不明だが、桂昌院の今宮社振興策の一環だったとも言われている。
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