五山学校とは? わかりやすく解説

五山学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/20 12:16 UTC 版)

五山高等学校」の記事における「五山学校」の解説

1907年12月李昇薫平安北道定州郡葛山五山設立した中等教育機関「五山学校」を起源とする。 20世紀初頭、日本韓国へ圧迫が強まる中で愛国啓蒙運動展開された。実業家であった李昇薫は、安昌浩らが組織した新民会理念共鳴し民族運動国民教育のための人材の育成を図るべく五山学校を開設した開設当初教師2名、生徒7名であり、科目修身歴史地理、英語、算術代数憲法物理天文学生物鉱物唱歌体操訓練などであったまた、キリスト教帰依した李昇薫は、1909年教育理念キリスト教定め中学部小学部分けた創設者李昇薫民族運動家として活動し、また朝鮮総督府からの注目警戒招いた人物である。韓国併合後1911年には「105人事件」で逮捕されている。1919年3月1日宣言され独立宣言書名を連ねた33人の民族代表一人キリスト教徒代表)となった三・一独立運動において、五山学校は定州一帯運動の拠点となった李昇薫投獄され学校廃校処せられることになった。しかし、1920年9月、金起らが私財出して再び開校するこの頃生徒数200余名教師20余名であった1926年11月朝鮮教育令に基づく私立高普通学校五山高等普通学校」として認可され5年制の正規学校となる。1929年光州学生事件においても400名の学生運動参加し10名余が検挙されている。 1930年5月には李昇薫死去。その遺言に「死体生理標本として学生達のために使えと言い残したという。1930年代には五山学校卒業生教員として学校戻り民族教育継承した1934年火災本館焼失する。その再建のために、当時理事長であった金起朱基瑢献身的な努力によって、『東亜日報』をはじめとした各界後援協力得て本館大講堂科学館体育館水泳場などの近代教育施設建てることができた。 第二次世界大戦中1942年2月19日、五山学校の教師及び学生逮捕・投獄された(革命事件)。

※この「五山学校」の解説は、「五山高等学校」の解説の一部です。
「五山学校」を含む「五山高等学校」の記事については、「五山高等学校」の概要を参照ください。

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