中学時代――母の急死
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1917年(大正6年)4月、両親の期待を背負って受験合格した大阪府立今宮中学校(現・大阪府立今宮高等学校)に入学。麟太郎は背の低い両親に似て、クラスで1番背丈が低く胴長でずんぐりしていたため、「ちんちくりん」「ちび」と渾名が付けられ、運動が不得意であった。夏休み明け、父は岸和田警察署尾崎分署(現・泉南警察署)の署長となり、一家は転居したため、麟太郎は父の姪夫婦の家や、父の元同僚の村上吉五郎巡査の家に下宿した。 麟太郎は村上に連れられて、南区竹屋町の泊園書院で藤沢黄坡(藤沢章二郎。藤沢南岳の次男)の講義を聴きに行き、黄坡の長男で同校の藤沢桓夫と顔見知りとなった。背が高くお洒落で垢ぬけていた恒夫は、小柄な麟太郎を可愛らしく思った。 中学の友人らの影響で文学に興味を持った麟太郎は、1919年(大正8年)の3年生の頃は、島田清次郎、徳冨蘆花などを読み、小説好きの母・すみゑが愛読していた尾崎紅葉の『金色夜叉』、泉鏡花、岩野泡鳴なども読んだ。父の職業の影響でそれ以前にも探偵小説なども読んでいた。 1920年(大正9年)正月、『文章世界』新春特別号の「文士録」を見て小説家に成る野心が芽生えた麟太郎は、それを母に告げた。母は、岩野泡鳴くらいに大成しなければ意味がなく、それは困難だろうから、文官高等試験に合格し官吏として堅実な道を行くことを諭した。 そんな妊娠8か月の身重の母・すみゑが、1月20日、洗濯中に子癇で倒れて21日に病院で死去した。その寒い夜、号泣し悲嘆にくれた麟太郎は「やはり、小説家になろう」と決意した。その後、猩紅熱で寝込んだ麟太郎だったが、無事に3年を修了した。 4年になった麟太郎は背が約5センチ伸びたが、母の急死の打撃で授業は欠席がちとなり、様々な文学作品を読み漁っていた。小説家の目標とした岩野泡鳴が自分の誕生日に死んだことで何か因縁を感じ、自分と同様に作文の上手く、よく先生から読み上げられる他のクラスの藤沢桓夫を常に意識していた。 シネマが好きだった麟太郎は、妹たちを連れて九条新道の松竹座や敷島倶楽部に行き、チャップリンやロイドの映画をよく観ていた。この年の12月に、習作「牛」「銅貨」を書いてみた。 1921年(大正10年)、4年の成績は落ちたまま修了し、5年に進級。父の再婚話が倉敷にいる父の姉から持ち込まれ、29歳の美代乃が武田家に後妻としてやって来た。その日、麟太郎は夜遅くまで家に帰って来ず、家族は心配した。妹たちは継母を受け入れたが、麟太郎だけはずっと新しい母に馴染めず、「お母さん」とは呼べなかった。この今宮中学時代に小品「老人」が、『中央文学』1921年5月号の懸賞散文佳作に掲載された。 1922年(大正11年)、今宮中学校を卒業し、同級の藤沢桓夫や小野勇は、新設の大阪高校を受験し合格したが、麟太郎は京都の第三高等学校を受験して失敗した。5月、父と共に池田の豊能郡役所に行き、小学校教員の就職を依頼するが、応募が多く欠員の見込みもないため、やはりもう1度、受験のため浪人することになった。 受験勉強の合間に様々な作家の小説を読み、自身も『中学世界』に短編作品を送ったりした。10月には、受験誌『考へ方』に「鈴木君の事」を投稿し、藤森成吉の選考に寄り第一位となった。「鈴木君の事」は翌年の1月・新年号に掲載された。麟太郎は一高受験を希望するが、経済的な理由で父親に反対された。
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