中国における徳治主義
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『説文解字』によれば「徳」と同じ意味に用いられる「悳」の字は、「外は人に得しめ、内は己に得」と解説される。また、字形を見れば「真っ直ぐな心」と解することが可能であり、それに彳(ぎょうにんべん)を加えることで真っ直ぐな心による行いの意味を有することになる。すなわち真っ直ぐな心をもって相手に恩恵を与えることで自らも恩恵を得ることが出来るというものであった。 『書経』や『詩経』では、こうした徳は天から与えられる内面的な道徳であり、自らを研鑽してこれを積み重ねて内外に恩恵を与えることが出来る「明徳」な人が天命を受けることが出来ると考えられていた。 孔子は『論語』為政編において「為政以徳譬如北辰居其所而衆星共之(政(まつりごと)をなすに、徳を以てす。たとえば北辰のその所にありて、衆星のこれに共うる(つかうる)がごときなり)」と説き、君主を北極星、国家を星空、人民を星々に擬えて、君主が徳で国家・人民を治めることで、人民を正しい方向に導いて国家は調和されて安定すると説き、国家統治の要は法令や刑罰、軍隊ではなく道徳や礼儀であるとした。孟子もこの思想を継承して、刑罰や軍事などの力をもって国を治めることを「覇道」とし、道徳や礼儀などの徳をもって国を治めることを「王道」とした。 だが、戦国時代に入ると、君主自身の能力への依存や運用の恣意性といった難点を有する徳治主義に対してあらかじめ決めた法令や刑罰でもって国を統治し、富国強兵を目指すべきであるとする法家が盛んとなってきた。彼らは儒教の徳治主義を批判したが、その一方で現実的の社会に合わせて折衷の動きもあった。荀子は孔子が重視した礼にも規制的な要素があり、徳治の枠組みから外れる者に対しては刑罰などの制裁が科されるとした。また、法家でありながら荀子からも学んだ韓非は徳が持つ君主からの恩恵の部分を捉えて信賞必罰の信賞の部分こそが徳の本質であると説いた[要出典]。 極端な法家主義を取って崩壊した秦が途上で挫折した中央集権・王権至上の国家形成の路線は漢に継承された。ただし、漢は秦の苛法から民衆を救うことを大義名分として成立した国家である一方で、秦の統治体制を継承するという矛盾を抱えていた。漢王朝には法家思想の法治主義を奉じる「酷吏」と呼ばれる官人も多数抱えていたが、そのうちの1人鼂錯は「法令は人情に合致」すべきであると唱えて人民に苛酷な法律は却って統治の妨げになると論じた。やがて、武帝のもとで儒教が体制教学としての地位を得るようになると、董仲舒は陰陽五行説を基に天と人(君主・帝王)の相互の感応関係を論じた天人相関説を唱えると、天にも陰陽があり、陽が徳で陰が刑でありどちらか一方が無くても国家は成り立たないと説き、徳治主義を基本とする儒教の中で法治主義の補完が必要であると主張したのである。 以後、中国王朝は表向きは儒教の徳治主義を国家理念としての絶対的地位を維持させながら、裏では法家の法治主義による国家運営を遂行する体制が、旧中国の一貫的な統治像として確立することになった。
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