両親の事件について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 10:47 UTC 版)
カッブ18歳の1905年8月5日の夜、カッブの兄弟は友人の家に泊まっており、父ウイリアムと母アマンダだけが家にいた。ウイリアムはこの時42歳、アマンダは34歳であった。妻の浮気の噂にたまりかねていたウイリアムは、浮気の現場をおさえるために「数日間巡回に出る」と言って夜中に突然外出した。ウイリアムが同日の深夜に家に戻ると、寝室でアマンダが浮気している事を認知。ウイリアムが更に浮気相手を確かめようと寝室にのりこんだ所、強盗か暴漢と勘違いしたアマンダに射殺されたという事件であったとされる。銃はウイリアムがアマンダのために護身用として購入していたものだった。ウイリアムは二発の弾丸を受け、窓際に倒れて即死した。その後まもなくして同年8月19日に息子のカッブはデトロイト・タイガースと契約し、8月末にはメジャーリーグデビューを果たすが、父親は息子の成功を見ることが出来なかった。 裁判ではアマンダは殺人罪に問われたが、翌1906年3月31日に正当防衛が認められ、無罪となった。カッブはこの事件以来、母親とは会おうとも話そうともしなかったという。一方で、裁判にて母親が不利になるような証言はしなかった。カッブは死の直前、自身の自伝の執筆を担当していた記者にその事について質問された際、「男はどんなときも母親を守らなければならない」と答えている。また、裁判後に父親を射殺したのは浮気相手だったことを知らされたという。 この両親の事件と敬愛していた父親の死は、まだ当時10代だったカッブの人格に大きな影響を与えたと言われており、それまでは素直な性格の選手であったが、事件以降、非常に攻撃的な性格になったとされる。事件が起こった直後のメジャー昇格の歓迎会では、初めて暴力事件を起こしてチームメイトを病院送りにした。それからも過激な言動を繰り返すようになり、人格に難のある選手として知られるようになった。打撃不振などを責められたためにチームメイトと大喧嘩をしたり、実績を残し始めるまではチームメイトから嫌がらせを受けたりすることもあったという。 現役時代、過激な発言で知られていたカッブだったが、マスコミから両親の事件の話について聞かれると途端に口をつぐみ、「その話はしたくない」と暗い表情になったという。後年、カッブは両親の事件について、「私は(この事件を)生涯乗り越えることができなかった」と語っている。 前述の1912年5月15日に起こった男性観客との乱闘騒ぎも、両親の事件に関する野次が引き金であった。同観客はこの試合において、試合開始からカッブに対して野次を飛ばしていた。守備につくカッブはこの観客と視線を合わさず無視していたが、段々と野次が過激になり、とうとう「お前は半ニガー野郎だ!」(白人と黒人のハーフ。つまり黒人と浮気をしていたとされる母親のことを指しての野次)という罵声を浴びせられた。この暴言にカッブは激怒し、守備に向かう途中に向きを変え、乱闘騒ぎへと向かった。カッブ自身は自伝にて、騒ぎを起こしたことは認めているが、殴る蹴るなどの暴力を振るったことは否定している。また、騒動から3日後に起こったチームメイト全員による試合出場のボイコット理由も、「観客の野次があまりにもひどい」という怒りから、カッブの処分を不服としたことが起因である。
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