世界都市・大都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
北方で勢力を拡大していたモンゴル帝国が金王朝・南宋帝国を滅ぼし、中国を統一したのは、1280年のことであった。しかし、その最中に大ハーン、モンケ・ハーンが没し、キヤット・ボルジギン家の中で後継を争う内紛が起こった。そこで、その内乱を制し、見事第5代大ハーンに即位したのは、建国者・チンギス・ハンの孫、フビライであった。中国地域を征服した元帝国は、漢人・モンゴル人両方の都とするべく、草原地帯と穀倉地帯のちょうど中間に位置し、かつて煬帝が掘削させた大運河も通る、金のかつての都・燕京に目を付け、都とした。 その当時、北京の地はモンゴルの征服により荒れ果てた状態であり、その再建が急務であった。そこで、フビライは金の中都よりも北東の地に「大都」と名付けた都を建造した。建築を任されたのは河北出身の劉秉忠(りゅうへいちゅう)で、1267年に建設が始まり、やく20年近い年月をかけ、完成を見た。その規模は金の中都の約4倍もある規模であった。 そこには、現在の故宮を彷彿とさせるような大宮殿が築かれ、その位置は現在の紫禁城のやや北に存在した[疑問点 – ノート]。また、貴族たちの大邸宅も築かれた[疑問点 – ノート]。また、この都市は、元帝国では内蒙古の上都開平府を夏営地、北京の大都大興府を冬営地と定めた。[疑問点 – ノート] 大都は地方政権の一中核都市からモンゴルという世界帝国の首都として躍進し、モンゴル帝国連合の中でも有数の経済的中心都市として位置付けられ、以前にもまして繁栄を謳歌した。また、西方の地域から色目人と呼ばれる人種の商人たちがやってきたりもして、西方の珍品を輸入し、逆に元帝国のシルクや陶磁器を輸出したりもし、実質、東西交流の中心の都として機能した。西方から訪れた商人の中でもっとも著名なのは、『世界の記述』を著したマルコ・ポーロであり、彼は1271年にヴェネツィア商人であった叔父とともにフビライに謁見し、元の宮廷につかえて各地を視察し、重用されたことで有名である[疑問点 – ノート]。 さらに、14世紀にはいるとモンゴル帝国の連合内での内紛も緩和され、陸のシルクロードを伝っての交易も盛んになった。活況を呈した大都の町の繁栄ぶりは、遠くヨーロッパまで伝わった。また、ここからネストリウス派キリスト教、イスラム教等の宗教も大都にもたらされた。 また、世界各地の富だけでなく、中国の南方の富も、ここ大都に集められた。そのような仕組みを作ったのはフビライ・ハーンで、そのための制度を勅するとともに、旧南宋帝国治下で繁栄を謳歌した華南の富を一挙に大運河を利用して集めることに成功した。 この都には様々な経済路が連結されており、上都やカラコルムに通じ、更には『草原の道』に通ずる路も造られ、『通恵河』と呼ばれる運河も建造され、京杭大運河や経済都市・直沽(現在の天津)を経由して『海のシルクロード』へと繫がった。 この都の規模は、明の時代の約3~2倍の規模を誇り、東西約7キロメートル、南北約8キロメートルの城壁で囲まれ、広大な都城であった。周の時代の官僚制度を書き記した『周礼』に基づき、金の中都、北宋の開封(当時は汴京)などの町割り・役所の配置などを参考にし造られた街路は、現在の北京市の町割りの大元となっている[疑問点 – ノート]。 街の正門は「麗正門」と言い、高さ・華麗さを誇った。
※この「世界都市・大都」の解説は、「北京の歴史」の解説の一部です。
「世界都市・大都」を含む「北京の歴史」の記事については、「北京の歴史」の概要を参照ください。
- 世界都市・大都のページへのリンク