世界都市ウィーンの成り立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)
「世紀末ウィーン」の記事における「世界都市ウィーンの成り立ち」の解説
「ウィンドボナ」、「ヨーゼフ2世」、および「ウィーンの歴史」も参照 ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀の道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点ウィンドボナが建設されたのがウィーンの始まりであった。 オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、ハプスブルク家の歴代当主は、この地を「キリスト教文化の砦」として防備を固めた。数多くの民族を内包するハプスブルク君主国の都ウィーンは、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市であった。19世紀にはバルカン諸国の独立によりイスラム圏への入口は東方に移っており、ウィーンは地理的にヨーロッパの中心となった。 ヨーロッパにおいて18世紀は、合理主義的思潮と自然科学が広がって「光の世紀」と呼ばれたが、オーストリアは比較的啓蒙主義の伝播が遅れ、近代化も進まなかったといわれる。しかし、ロシアやプロイセンなどと同様、啓蒙思想の伝播の比較的遅かったオーストリアでは、近代化が啓蒙専制君主を通じた特殊なかたちをもってあらわれた。1770年、マリア・テレジアはウィーン旧市街と郊外地域とを統一的な規則によって統合するため番地制度を導入し、都市空間の合理的整序を図った。後を継いだヨーゼフ2世は、1780年より修道院廃止政策を進めて、聾唖学校や軍医養成アカデミーなど福祉・教育施設を建設し、とりわけ1784年に完成した総合病院はヨーロッパ随一の規模をほこった。国民より「博愛主義者」と呼ばれて敬愛されたヨーゼフ2世は、市門の終夜開放もおこなった。こうした政策によって都市生活における消費文化も浸透した。上層階級が遠足を楽しむようになると庶民にもすぐに広まり盛況を呈し、アルコールにかわってコーヒーの飲用習慣が広がるとたちまち中下層の人びとにも広がった。ウィーンでは社会的平準化が進行し、近代的メトロポリスが形成されて、19世紀にはヨーロッパでロンドンやパリにつぐヨーロッパ第三の大都市へと変貌を遂げていったのである。
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