三国の干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:55 UTC 版)
詳細は「三国干渉」を参照 これに先立つ4月8日、ロシア帝国政府は「日本の旅順併合は、清国と日本が良好な関係を結ぶことにたいして永久的な障害となり、東アジアの平和の不断の脅威となるであろう、というのが、ヨーロッパ列強の共通の意見である——ということを、友好的な形式で日本へ申し入れる」ことを、列国に提議した。日清戦争が始まって以来、ヨーロッパ列強はこの戦争に共同干渉を加えようとしばしば試みてきたが、いずれもドイツの反対で歩調が合わず実現されなかった。しかし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ドイツのヨーロッパにおける安全のためにはロシアが極東において積極政策をとることが得策であると判断し、ロシア皇帝に対し、強くこれを推奨したのであった。 一方、同じ4月8日、イギリスでは閣議が開かれて「極東問題」に対する基本方針が話し合われ、日清講和に対しては不干渉政策を採用することを決定、共同干渉には参加しないことを決定した。当初日本に対してイギリスと共同干渉するつもりであったドイツは、このため結局、ロシアの呼びかけに応じることに転じた。ドイツの干渉政策採用には「ヨーロッパ政策」と「世界政策」の複雑なからみあいが潜在していた。 明治天皇による批准の3日後の4月23日、東京駐在のロシア、ドイツ、フランスの3国の公使が外務省を訪れ、病気で兵庫県舞子に静養中だった陸奥外相に代わり、それに応接した林董外務次官に対し、日本が遼東半島を恒久的に領有することは東アジアの平和を乱すものとして、遼東還付を勧告する覚書を手渡した(三国干渉)。日本の遼東領有が自国の南下政策にとって脅威であるとみたロシアが、露仏同盟による同盟国フランスを誘い、ドイツも巻き込んで干渉したものであり、武力行使も辞さない強硬さを示した。ドイツはこれより10年間、ロシアの極東進出を積極的に支持する路線を保持する一方、自らもアジアに深く関与する方針を採用した。 翌4月24日、日本政府は広島で御前会議をひらき、列国会議を召集してこの問題を処理する方針を決定した。しかし、舞子で静養中の陸奥はこれには断固反対した。当時の日本陸海軍の実力では列強3国を相手にしてかなうはずがなかったし、列国会議を召集すれば、そこが三国干渉以上の新しい干渉の場になってしまうというのが陸奥の意見であった。当初、日本政府はイギリスの反応に期待し、また、そのように期待するのにも理由があった。というのも、ロシアとのグレート・ゲームにおいて清国が強力な防波堤であるようにみえたとき、イギリスは親清的であったが、その清に勝利した日本はいっそう強力な防波堤であることが明らかになったわけであり、イギリス世論は今や相当に親日的になりつつあったからである。しかし、イギリスとしても独・仏・露3国との関係を悪化させてまで日本に肩入れするのは不可能であった。4月29日、イギリス外相のキンバーリー伯爵は駐英日本公使の加藤高明に対し、この件についてイギリスは中立を守り、日本には援助できない旨を伝えた。 窮地に立たされた伊藤博文らが最も恐れたのは、清国が講和条約の批准を拒否することであった。日本政府は、「三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべし」という苦渋の決断を下し、旅順口を除く遼東半島放棄の意向を伝えた。しかし、ロシアはそれに応じようとせず、清国もまた三国干渉を理由に批准書交換の延期を申し入れてきた。打開策を持たない日本政府は、5月4日の閣議で旅順口も含む全遼東半島の放棄を決め、翌5月5日、独・仏・露の駐日公使に通告した。
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