三国〜南北朝時代の陶磁
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「中国の陶磁器」の記事における「三国〜南北朝時代の陶磁」の解説
三国(222 - 265年)、西晋・東晋(265 - 420年)、五胡十六国(304 - 439年)、南北朝(420 - 589年)の陶磁について概説する。漢代に発生した青磁は、この時代にも引き続き製作された。華南の浙江省を中心とした地域の墳墓からは三国時代の呉から西晋、東晋に至る時期の青磁が出土する。これらの青磁を、古越磁、古越州と呼びならわしているが、この「古」は、後代(唐後期〜北宋)の越州窯青磁と区別した呼称である。この時代の青磁の現存するものは、ほとんどが墳墓に副葬された明器であり、日常用の器がどのようなものであったかは明確でない。器種としては、壺、盤のような一般的なもののほか、神亭壺と呼ばれる特殊な壺、獅子、虎、羊などの動物をかたどった容器、鶏舎や猪圏(豚小屋)をかたどったものなど、明器特有の器種もある。神亭壺は、壺の上に楼閣形を乗せ、人物や動物の小像で飾り立てたもので、この時期特有の器種である。以上のような明器特有の器種は呉から西晋にかけて盛んに作られるが、東晋代にはこの種の作例は減り、実用的な器種が増えていく。この時代特有の器種としては他に、鶏頭形の注口をもつ天鶏壺がある。天鶏壺は把手を有するものと有しないものがあり、東晋以降、南朝時代に至っても製作されている。なお、鶏頭形の注口は外観だけで、内部に孔が貫通していない例が多い。壺の口縁の部分を盤(皿)形とした盤口壺もこの時期に盛んに作られた。南北朝時代の南朝においても青磁は焼造されているが、呉・西晋時代に作られたような明器用の特異な器種は姿を消し、盤、壺、瓶といった実用的な器種のものがもっぱら作られるようになった。浙江省北部の徳清窯など、各地の窯の個性も次第に明確になってくるが、その詳細の解明は今後の課題となっている。華南では東晋時代を中心に黒釉磁も生産された。 一方、この時代の華北においては、6世紀初め頃までは陶磁史のうえで目立った展開は確認できず、漢の滅亡から魏、西晋を経て五胡十六国時代までは取り上げるべき遺品に乏しい。6世紀に至り、北魏では厚葬の風習に伴い、明器(副葬品)としての鉛釉陶(緑釉、褐釉)が再び登場し、加彩灰陶の人物、動物などの俑も作られた。北魏の東西分裂後の東魏では黒磁、青磁も作られた。短命に終わった東魏の後を継いだ北斉では初めて白磁が焼造されたが、西魏とその後を継いだ北周では目立った作陶活動は確認できない。北朝の青磁の遺品としては、貼付文を多用した大型の瓶が典型的なものとして知られる。河北省衡水市景県の封子絵(ふうしかい)墓から出土した青磁蓮弁文瓶(北斉)は古くから知られるものである。越州窯など華南地方で製作された青磁に対し、耀州窯(唐〜宋)などの華北で製作されたものを北方青磁と称するが、上述の瓶は北方青磁の登場を告げるモニュメンタルな大作である。被葬者の封子絵が563年に没し、565年に葬られていることから、この瓶の製作年代もその頃に位置づけられる。高さ70センチ近い大作で、脚部、胴部など各所に蓮弁をかたどった複雑な器形をなし、器全面に薄肉彫、線彫、貼花などで文様を表している。釉調は黒ずんでおり、華南の青磁とは異なっている。北斉代には白磁も作り始められている。初期の白磁を焼いた窯としては河北省の邢州窯(けいしゅうよう)が著名である。邢州窯の窯址は河北省邢台市臨城県と同省同市内丘県で確認されており、初期には白磁より青磁を多く焼いていた。白磁とは、一般には、精製された白色の胎土に透明釉を掛けて高火度で焼き上げた磁器であるが、北斉代の初期白磁では、胎土の上に白化粧土を掛けてから透明釉を掛けている。邢州窯の白磁は隋代から盛んに製作されるようになり、唐を経て五代まで存続する。年代を押さえられる白磁の最古の遺品とされるものは、北斉の武平5年(575年)に没した范粋の墓の出土品で、白磁の壺、碗などがある。ただし、これらの墳墓出土品を、直接邢州窯と結び付けてよいかどうかは、なお研究を要する。 青磁蓮弁文瓶 北朝 青磁獅子形燭台 西晋 青磁虎子 西晋 上海博物館 黒釉天鶏壺 西晋 - 東晋
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