三図の描写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:18 UTC 版)
三図にはそれぞれ複数の人物が描かれ、左図には婦人に従う少年、中央図には娘と幼児、右図には虚無僧が描かれている。「初午の図」では描かれる人物の衣装がそれぞれ当時の歌舞伎俳優の意匠を現している点が特徴とされる。左図では半天姿のお歯黒を付けた婦人が左を向き、大きな絵馬を持つ。婦人には「正一位 村田氏」と描かれた幟(のぼり)を担いだ片肌脱ぎの少年が従っている。 婦人の半天の柄は「括猿(くくりざる)」で、弘化元年に襲名した四代目市川小團次を現す。少年の着物の柄は「火災宝珠」で、役者ではないが歌舞伎の演目・義経千本桜において忠信(源九郎狐)が狐の姿に戻る際の衣装に使用される。婦人の絵馬には川の流れる風景と和歌「見はたせば町のかなめの扇橋つゝく柳のみとりうつくし 邯鄲園」と記されている。石川博は当初、「扇橋」は甲府城下・甲斐国には存在せず、江戸深川(東京都江東区)の扇橋もしくは江戸王子稲荷付近の音無川の風景である可能性を想定した。その後、郷土史家の飯田文彌(専門は近世史)により『裏見寒話』巻四に記される連雀町から片羽町に架かる「扇橋」の存在を指摘され、甲府城下の様子を描いた可能性もあると訂正している。作者の「邯鄲園(かんたんその)」については不明。 少年の幟の「村田氏」について、『甲府買物独案内』では甲府城下において村田(村田屋)を名乗る複数の商家が記録されており、甲府魚町(甲府市中央)の書肆(しょし)・村田屋孝太郎などが知られる。三代豊国は村田屋孝太郎と交流があり、安政以前に甲府を訪れているとされる。なお、甲府近郊の名所を描いた浮世絵には、甲府市太田町の一蓮寺を描いた弘化4年(1848年)から嘉永5年(1851年)の刊行と推定される歌川国芳『甲州一蓮寺地内 正木稲荷之略図』があり、同図でも「村田」の語句が記されている。 中央図では駒下駄を履き派手な簪(かんざし)を刺した娘が右向きで幼児を背負う。幼児は小さな絵馬を持ち、絵馬には狐と宝珠が描かれている。背景には「正一位王子稲荷大明神」の幟が立つ。娘の着物は「鎌の絵」と「○(輪)」と「ぬ」で「かまわぬ」と読む。「かまわぬ」は七代目市川團十郎とその一門が用いたもので、江戸市中において手ぬぐいの模様になるなど流行したという。中央図では「かまわぬ」のほかに「蝙蝠(こうもり)」「瓢箪(ひょうたん)」「牡丹(ぼたん」の模様もあり、これらも同様に團十郎を意味する。婦人・幼児の上部には和歌「灯籠のみかげもそひて寺の名のよき光りある三つのともし火 吉相廼岡女」が記される。作者の「吉相廼岡女」については不詳。「灯籠」は稲荷に奉納される石灯籠のほかに、甲斐善光寺の灯籠仏を指す可能性が考えられている。 右図は袈裟掛、深編笠に尺八を持った虚無僧が左を向いている。虚無僧の顔は女性的に描かれ、女虚無僧である可能性も指摘される。虚無僧の小袖にはかきつばたが描かれ、岩井粂三郎(いわいくめさぶろう)・岩井半四郎を意味する。同時代には三代目岩井粂三郎(八代目岩井半四郎)がいる。 江戸後期には2月の初午に稲荷詣りを行う稲荷信仰が加熱し、特に江戸の王子稲荷の初午の賑いは知られる。甲斐善光寺では現在では初午祭りは廃れているが、若尾謹之助『甲州年中行事』に拠れば江戸時代には初午の賑いがあり、絵馬の奉納が行われたという。また、三代豊国をはじめ浮世絵師も絵馬を手がけている。
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