ローマ定住以後とは? わかりやすく解説

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ローマ定住以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:31 UTC 版)

フランツ・リスト」の記事における「ローマ定住以後」の解説

リスト1861年にはローマ移住した後、1865年僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降2つ伝説』などのようにキリスト教題材求めた作品増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀印象主義音楽影響与えドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っている。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激受けて書かれたものであると言われている。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘たくさんある糸杉をみた印象カロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉木々の下で過ごしたのである!それは一種強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその歌い泣くのが聞こえ、その変わらぬ重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調宣言したが、シェーンベルクらの十二音技法へとつながってゆく無調とは違いメシアン移調の限られた旋法同様の旋法用いられ作品である。この作品長い間存在知られていなかったが、1956年発見された。 リスト晩年虚血性心疾患慢性気管支炎鬱病白内障苦しめられた。また、弟子の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}フェリックス・ワインガルトナーリストを「確実にアルコール依存症」と証言していた[要出典]。晩年簡潔な作品には、病気による苦悩表れとも言うべきものが数多く存在している。 1886年バイロイト音楽祭ワーグナー楽劇トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞心筋梗塞亡くなり、娘コジマ希望によりバイロイト墓地埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトルター派土地であることを理由強く反対した)。第二次世界大戦前立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊戦後しばらくは一枚石板置かれているのみだったが、1978年再建された。

※この「ローマ定住以後」の解説は、「フランツ・リスト」の解説の一部です。
「ローマ定住以後」を含む「フランツ・リスト」の記事については、「フランツ・リスト」の概要を参照ください。

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