レース車両としてのF40
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 04:12 UTC 版)
「フェラーリ・F40」の記事における「レース車両としてのF40」の解説
F40の開発コンセプトからレースへの参加は当初から考えられてはいたようだが、当時は参加できるレースもほとんどなかった。車体を構成する鋼管スペースフレームなどは1960年代以来の古典的なもので、レース環境が整う1990年代頃最新のマクラーレン・F1に敵うはずもなく、F40は時代遅れという状態だった。公にモータースポーツの場に姿を見せたのは、2000年の英国GT選手権が最後となっている。 1989年 ヨーロッパでは1989年のル・マン24時間レースに出場すべくF40LMが準備されたが、当時のル・マンはグループCの時代でエントリーが認められなかった。しかし、F40は10月にアメリカのIMSAシリーズGTOクラスのラグナ・セカ1時間レースにジャン・アレジのドライブでスポット参戦し、3位に入った。続くデル・マー1時間にはジャン=ピエール・ジャブイーユのドライブで出走するがリタイアに終わった。 1990年 引き続きIMSA-GTOにジャン=ピエール・ジャブイーユ等のドライブで数戦のスポット参戦をする。初戦のトペカ2時間はリタイア。ミド・オハイオ250kmでは3位。モスポートでは2位。ロード・アメリカ300kmでは2位。ワトキンス・グレン500kmでも2位表彰台を獲得した。 1992年 イタリア・スーパーカーGT選手権が始まり、ジョリークラブがミケロット作のF40GTで3年間出場し、ライバルもなく、連戦連勝した。 1994年 BPR GTシリーズが始まり、ストランデル エネア チームがF40GTおよびGTEで参戦するが、信頼性が確保出来ず1勝にとどまった。 前後してレギュレーションが改訂され、GTのレースとなったル・マン24時間レースにも参戦した。初出場の1994年のル・マン24時間レースには1台が出走し、リタイアした。その後、来日し、鈴鹿500kmに参戦。このレースでは優勝を果たしている。 日本国内においては全日本GT選手権に参戦し、このシーズンに1勝したが、国産車に有利なレギュレーション改正[要出典]がたびたび行われたため、活躍できた期間は短期間であった。 1995年 BPR GTシリーズはフェラーリクラブイタリアから2台のGTE、パイロット・アルデックスレーシングからLMが1台参戦。GTEのデビュー戦であるモンツァではポールポジションを獲得。続くハラマ、ニュルブルクリンクでもポールを獲得する他、合計5度のポールを獲得する活躍を見せたが、どれも勝利には結びつかなかった。一方LMはアンデルストープ戦で優勝。これがこのシーズン唯一のF40の優勝であった。 1995年のル・マン24時間レースには1台のLMと2台のGTEが出走。予選ではマクラーレンを上回る総合6位、7位、8位を獲得したが、本戦ではLMの総合12位GT1クラス6位が最上位で、同じGT1クラスで総合優勝したマクラーレン・F1からは28周遅れだった。 1996年 BPR GTシリーズはエネアの2台のGTE、パイロットのLMに新しくユーロチームのGTEが加わった。外見的にも前年度に比べると大きな違いが現れた。前年と同じく予選で良い位置につけることは多かったが、アンデルストープ戦でのエネアの1勝に留まった。BPR GTでは3年で1勝ずつ3勝で終わる結果となった。 1996年のル・マン24時間レースもLM1台とGTE3台が出走したがすべてリタイアした。 イタリアのヴァレルンガで行われたヴァレルンガ6時間レースで優勝を果たしている。 1997年 1997年のル・マン24時間レースはエントリーはしたものの出場しなかった。 1998年 フランスGT選手権に出場。 タイサンSTARCARD F40
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