レーガン時代:保守派の隆盛
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「アメリカ合衆国の保守主義」の記事における「レーガン時代:保守派の隆盛」の解説
レーガンが大統領に就任した日に、テヘランではイスラム過激派が人質を解放した。1980年大統領選挙での勝利で現代アメリカ保守派が権力を握った。共和党は1954年以来初めて上院での多数派となった。保守派の原則がレーガンの経済と外交政策を支配し、供給重視型経済とソビエト共産主義に対する厳格な反対が政権の哲学を定義した。レーガンの考え方は、この時代に影響力を劇的に増した保守派ヘリテージ財団に信奉・支持され、1984年大統領選挙の結果によって2期目にまで拡大され、レーガンとその上級補佐官達はヘリテージ財団に政策の誘導を求めた。 レーガンはアメリカ保守派運動の象徴として、アメリカの政治を転換させ、共和党の成功を促した者と、その支持者から見られている。その供給重視型経済を支持した経済保守派と、共産主義とソビエト連邦に対して確固たる姿勢を望んだ外交保守派、さらにはその宗教と社会の理想を識別した社会的保守派の連携をもたらした。レーガンはソビエト連邦を「悪の帝国」と名づけた。保守派はレーガン・ドクトリンも支持した。その下では、ソビエト連邦と同盟する政府に抵抗する内乱などに軍事面などの援助を提供した。このために当時のリベラル派からは主戦論者と揶揄されたが、保守派の歴史家はレーガンが冷戦に勝利したと主張している。 レーガンは保守主義を定義して次のように語った。 もしそれを分析するならば、保守主義の心と精神そのものがリバタリアンだと信じる。自由主義がリベラルにとって誤った名称であるように、保守主義も誤った名称だと思う。独立戦争の昔に戻れば、今日のいわゆる保守はリベラルであり、リベラルはトーリー(保守派)となる。保守主義の基本は政府による干渉が少なく、中央集権の弱いもの、あるいは個人の自由度が高いことへの願望であり、それがリバタリアンとは何かを表現するものにも当てはまる。 政府に対するレーガンの見解はトーマス・ジェファーソンの、特に強い中央政府に対する敵意から影響を受けた。1987年には「我々は依然としてジェファーソンの子供達である」と宣言した。「自由は政府が作るものではなく、政治権力における政府からの贈り物でもない。事実、政府に制限を課すことで、他の何物よりも多く確保されるものである。」レーガンはエイブラハム・リンカーンも賞賛し、引用することが多かった。 供給重視型経済がレーガン時代を支配した。大統領を務めた8年間で、国債は1980年の9,070億ドルから1988年の2兆6,000億ドルまで2倍以上に増加した。消費者物価は50%以上上昇した。しかし所得税率をカットしたにも拘わらず、国の所得税歳入は、1980年の2,440億ドルから1990年の4,670億ドルまで増加した。それ以前の政権では低下していた家族あたり実質収入中間値は、レーガン政権下で約10%増加した。1981年から1989年の期間はアメリカ史の中でも最も繁栄した期間であり、1,700万人分の職を創設した。
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