ラ・ロッシュ=モーリスの町の歴史
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「ラ・ロッシュ=モーリス」の記事における「ラ・ロッシュ=モーリスの町の歴史」の解説
城の町としてのラ・ロッシュ=モーリスの歴史は、15世紀より以前は不明である。なぜならば1407年にブルターニュ公ジャン5世が許可した特許状において、ラ・ロッシュ=モーリスでの市は10月の第一日曜日と第一火曜日に開くこととされているからである。1363年にエルヴェ8世が残した遺言書において、礼拝堂に礼拝堂付き司祭をおくことが示されている。これが現在のラ・ロッシュ=モーリスの教会のことについてなのか不明である。ロアン子爵家は、1539年から1589年にかけて現在の城が建設された時に財政援助を行っており、納骨堂は1639年から1640年にかけて建設された。 ラ・ロッシュ=モーリスの農民は、乞食はわずかで一部にはジュロ(julod)と呼ばれる豊かな農民もいたものの、ほとんどが簡素な暮らしを送っていた。julodはブルターニュの繁栄を支えた帆布製造で富を蓄えた人々であり、1675年には印紙税一揆に巻き込まれている。一揆に参加した農民たちは身を潜めることを強いられた。ラ・ロッシュ=モーリスの町は賠償金として500リーブルの支払いを命じられた。 1789年に書かれた第三身分陳情書では、ラ・ロッシュ=モーリスの代表が1人、ポン=クリストの代表が1人、名を記している。1793年3月18日、ラ・ロッシュの農民たちは反革命の反乱であるケルギドゥの戦いに参加した。納骨堂と、教区教会の大きな窓は、恐怖政治時代に解体された。 1790年にコミューンとなるが、それは古いラ・ロッシュ=モーリス小教区に古いポン=クリスト小教区が加わったものだった。しかしゲラン集落は切り離されてプルディリに併合された。新しいコミューンの名はラ・ロッシュ・エ・トレヴルール(La Roche et Trévreur)といい、1801年にトレヴルールが分離した後は単にラ・ロッシュとなった。1979年6月15日より現在の名称、ラ・ロッシュ=モーリスとなっている。 1805年以降の公文書によれば、トレヴルールはプルディリ小郡のコミューンで、プルディリから5km離れており、サン=ソヴールの人口638人を含んでおり、ランディヴィジオ警察署管轄下にあった。 19世紀は、1825年の製粉工場建設、エロルン川やその支流での製紙工場建設、そして1845年には2500人を雇用したトラオン=エロルン紡績工場の建設といった産業ブームが特徴であった。フランス第二帝政時代にはパリ=ブレスト鉄道が建設され、1865年に開業した。鉄道が通るコミューンの風景は一変した。1882年、西部鉄道によってラ・ロッシュ=モーリス駅が開業した。 ラ・ロッシュ=モーリスの戦死者記念碑には、51人のフランスに命を捧げた者の名が刻まれている。そのうち32人が第一次世界大戦の戦死者、18人が第二次世界大戦の戦死者、1人がインドシナ戦争の戦死者である。 ラ・ロッシュ=モーリスの戦略的位置のため、1940年4月にはフランス軍のアルペン猟兵の存在があった。その後イギリス軍が替わって入り、1940年のドイツ軍侵攻によるフランスからの脱出(fr)後にはドイツ軍と、ポントワの農場で略奪を働いたロシア解放軍の白ロシア人たち(実際はグルジア人)が入った。ドイツ兵たちはランデルノーへの道沿いに20軒のバラックを建てて住み、大西洋の壁建設のためトート機関によってオランダ人とベルギー人、700人から800人が接収された。そしてブレストに駐留するドイツ海兵のため設けられた退却用キャンプもあり、特に巡洋戦艦シャルンホルスト乗組員の退却用キャンプはポントワの森にあった。 1944年8月9日、プルネヴェンテルから進軍したアメリカ軍によって13時間でコミューンは解放された。解放される前、ドイツ軍は14歳の子どもを含む3人を射殺している。
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