ラ・ロッシュ=モーリスの城とは? わかりやすく解説

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ラ・ロッシュ=モーリスの城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/23 15:49 UTC 版)

ラ・ロッシュ=モーリス」の記事における「ラ・ロッシュ=モーリスの城」の解説

言い伝えによれば城は古くからあり、エロルン(川と同じ名である)という領主5世紀には所有し当時は城はHainebonという名で知られていた。このことはフロワサールの年代記記されている。 ラ・ロッシュ=モーリス城の歴史レオン伯と密接につながっている。1180年レオン伯領が解体されると、レオン伯家の最も若い分家レオン子爵ギヨマール4世の末息子で、レオン領主エルヴェ1世初代となる)がダウラランデルノー、ペンゼ川までのランディヴィジオ獲得し8世代にわたってラ・ロッシュ=モーリス封土周辺管理した。 エロルン川谷を見下ろす岩のある丘の上位置した要塞は、その封土全方向からみて中央部分であり、さらには30教区小教区抱えた豊かなランデルノー重要な代官区を含んでいた。ラ・ロッシュ=モーリス領主は、領主裁判権の上級・中級下級それぞれの裁判所持ち、エロルン川右岸にある城の反対側には絞首台もあった(Le Justiçouという小さな川の名はこの裁判所からきている)。15世紀までラ・ロッシュ=モーリスにはプルディリおよびシザン司法管区置かれていた。 1177年Roc'h-Morvanの城(元々はレオン領と対峙し、コルヌアイユ領主モルヴァンの領地属していた)がイングランド軍によって陥落させられた。そこは、1181年から1186年までブルターニュであったジェフリー・オブ・プランタジネットが駐屯地とし、ギヨマール4世息子対しレオン領の一部戻された。1179年レオン子爵領後継者ギヨマール5世建設した塔の幅はおよそ13mあり、1210年代まで残っていた。1240年ブルターニュジャン1世進軍阻止しようエルヴェ3世一部破壊させたが、無駄に終わった。しかしエルヴェ8世が死ぬ1363年まで、城は一族所有し続けたエルヴェ8世直系子孫残さず死んだため、レオン領の相続権エルヴェ8世の姉ジャンヌを妻としていたロアン子爵ジャン・ド・ロアンが得た。それから現在に至るまでレオン領主称号ロアン家保有している。およそ150年間、ロアン子爵継承予定者であるロアン家長男レオン領主称号与えられ1517年までラ・ロッシュ=モーリス城で暮らしていた。 ブルターニュ継承戦争さなかの1342年、パンティエーヴル派のシャルル・ド・ブロワは、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌ・ド・フランドルが占拠する城を自ら奪おうとしたが失敗した(この時にはシャルル・ド・ブロワ配下であるゴーティエ・ド・モーニーが指揮を執って、6000人の弓矢手を運ぶ船が到着している)。1538年1月15日、ラウル・ド・カオールは、「王のエンボン(Henbont、ラ・ロッシュ=モーリス古名がまだ使われていた)とブレストの城の権威の下で働く」と表明した1472年当時ブルターニュフランソワ2世ロアン家家来ルイ・ド・ロスニヴィネンの同意得て城を没収するが、フランソワ2世・ド・ロアンが短期間取り戻し1479年にケルソーゾン家のギヨーム城代命じたラ・ロシュモーリス城は『国の防衛において、レオン唯一の砦』となった1489年始まったブルターニュフランス戦争では、レオン子爵ジャン2世・ド・ロアンも戦った。彼はフランス王シャルル8世対し、自らと妻マリー・ド・ブルターニュブルターニュフランソワ1世と妃イザベル・デコス次女)の祖先であるブルターニュ公国継承する主張したジャン2世・ド・ロアンは、ブルターニュ女公にしてフランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュ王女たちを生むまでは、ブルターニュ公位継承を持つ有力者であった。ラ・ロッシュ=モーリスの城は解体された。ロアン家ラ・ロッシュ=モーリス城に興味がなく、全ての住民ロアン家に対して支払義務がある監視権受け取り続けられるよう、最低限の城の維持しか行わなかった。ユグノー戦争時代1580年代ロアン家ブルターニュにおけるユグノー派首領だった。城はおそらくこの時代破壊され二度と再建されなかった。 1678年、城は刑務所にされ、1694年まで使われた。1695年に王にあてて出され公文書では、ラ・ロッシュ=モーリス城とジョワイユーズギャルド城(ラ・フォレランデルノー)の状態が悪化していることが明らかになっている。18世紀から19世紀にかけ、城は採石場となり、多く住宅や、おそらく村の教会も城の石を用いて建てられた。 城は長くロアン家所有していたが、1986年フィニステール県議会買収した。城の地形図の作成は、県の考古学が行った。2001年から2010年まで考古学的発掘考古学者ジョスラン・マルティノーの指揮下行われたが、全体の1/10しか発掘されていないギュスターヴ・フローベールは、以下のようにラ・ロッシュ=モーリス城の訪問記している。 「 ラ・ロッシュ=モーリスの城は、山の頂上にある鷹の巣真の城伯作品である。 」 城は現在観光客に対して公開されており、城へ登る際には、中世史研究家パトリック・ケルネヴェズが監修し説明パネル点在した、安全なルート提供されている。しかしラ・ロッシュ=モーリス城の歴史は、ロアン家古文書室がほとんど破壊されてしまったために永遠に不明なまである。これは1793年恐怖政治時代のChartrier de Blainの名で知られ破壊行為であり、近年行われたマルティノーによる発掘作業でも明らかになっていない

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