ラ・ロッシュ=モーリスの城
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「ラ・ロッシュ=モーリス」の記事における「ラ・ロッシュ=モーリスの城」の解説
言い伝えによれば城は古くからあり、エロルン(川と同じ名である)という領主が5世紀には所有し、当時は城はHainebonという名で知られていた。このことはフロワサールの年代記に記されている。 ラ・ロッシュ=モーリス城の歴史はレオン伯と密接につながっている。1180年にレオン伯領が解体されると、レオン伯家の最も若い分家(レオン子爵ギヨマール4世の末息子で、レオン領主エルヴェ1世が初代となる)がダウラ、ランデルノー、ペンゼ川までのランディヴィジオを獲得し、8世代にわたってラ・ロッシュ=モーリスの封土周辺を管理した。 エロルン川谷を見下ろす岩のある丘の上に位置した要塞は、その封土の全方向からみて中央部分であり、さらには30の教区と小教区を抱えた豊かなランデルノーの重要な代官区を含んでいた。ラ・ロッシュ=モーリス領主は、領主裁判権の上級・中級・下級のそれぞれの裁判所を持ち、エロルン川右岸にある城の反対側には絞首台もあった(Le Justiçouという小さな川の名はこの裁判所からきている)。15世紀まではラ・ロッシュ=モーリスにはプルディリおよびシザンの司法管区が置かれていた。 1177年、Roc'h-Morvanの城(元々はレオン領と対峙し、コルヌアイユ領主モルヴァンの領地に属していた)がイングランド軍によって陥落させられた。そこは、1181年から1186年までブルターニュ公であったジェフリー・オブ・プランタジネットが駐屯地とし、ギヨマール4世の息子に対しレオン領の一部が戻された。1179年にレオン子爵領の後継者ギヨマール5世が建設した塔の幅はおよそ13mあり、1210年代まで残っていた。1240年、ブルターニュ公ジャン1世の進軍を阻止しようとエルヴェ3世は一部を破壊させたが、無駄に終わった。しかしエルヴェ8世が死ぬ1363年まで、城は一族が所有し続けた。エルヴェ8世は直系子孫を残さず死んだため、レオン領の相続権はエルヴェ8世の姉ジャンヌを妻としていたロアン子爵ジャン・ド・ロアンが得た。それから現在に至るまで、レオン領主の称号はロアン家が保有している。およそ150年間、ロアン子爵の継承予定者であるロアン家の長男はレオン領主の称号を与えられ1517年までラ・ロッシュ=モーリス城で暮らしていた。 ブルターニュ継承戦争さなかの1342年、パンティエーヴル派のシャルル・ド・ブロワは、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌ・ド・フランドルが占拠する城を自ら奪おうとしたが失敗した(この時にはシャルル・ド・ブロワの配下であるゴーティエ・ド・モーニーが指揮を執って、6000人の弓矢手を運ぶ船が到着している)。1538年1月15日、ラウル・ド・カオールは、「王のエンボン(Henbont、ラ・ロッシュ=モーリスの古名がまだ使われていた)とブレストの城の権威の下で働く」と表明した。 1472年当時、ブルターニュ公フランソワ2世はロアン家の家来ルイ・ド・ロスニヴィネンの同意を得て城を没収するが、フランソワ2世・ド・ロアンが短期間で取り戻し、1479年にケルソーゾン家のギヨームを城代に命じた。ラ・ロシュ=モーリス城は『国の防衛において、レオン領唯一の砦』となった。 1489年に始まったブルターニュ=フランス戦争では、レオン子爵ジャン2世・ド・ロアンも戦った。彼はフランス王シャルル8世に対し、自らと妻マリー・ド・ブルターニュ(ブルターニュ公フランソワ1世と妃イザベル・デコスの次女)の祖先であるブルターニュ公国を継承すると主張した。ジャン2世・ド・ロアンは、ブルターニュ女公にしてフランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュが王女たちを生むまでは、ブルターニュ公位継承権を持つ有力者であった。ラ・ロッシュ=モーリスの城は解体された。ロアン家はラ・ロッシュ=モーリス城に興味がなく、全ての住民がロアン家に対して支払う義務がある監視権を受け取り続けられるよう、最低限の城の維持しか行わなかった。ユグノー戦争時代の1580年代、ロアン家はブルターニュにおけるユグノー派の首領だった。城はおそらくこの時代に破壊され、二度と再建されなかった。 1678年、城は刑務所にされ、1694年まで使われた。1695年に王にあてて出された公文書では、ラ・ロッシュ=モーリス城とジョワイユーズ=ギャルド城(ラ・フォレ=ランデルノー)の状態が悪化していることが明らかになっている。18世紀から19世紀にかけ、城は採石場となり、村の多くの住宅や、おそらく村の教会も城の石を用いて建てられた。 城は長くロアン家が所有していたが、1986年にフィニステール県議会が買収した。城の地形図の作成は、県の考古学課が行った。2001年から2010年まで考古学的発掘が考古学者ジョスラン・マルティノーの指揮の下行われたが、全体の1/10しか発掘されていない。 ギュスターヴ・フローベールは、以下のようにラ・ロッシュ=モーリス城の訪問を記している。 「 ラ・ロッシュ=モーリスの城は、山の頂上にある鷹の巣、真の城伯の作品である。 」 城は現在観光客に対して公開されており、城へ登る際には、中世史研究家パトリック・ケルネヴェズが監修した説明パネルが点在した、安全なルートが提供されている。しかしラ・ロッシュ=モーリス城の歴史は、ロアン家の古文書室がほとんど破壊されてしまったために永遠に不明なままである。これは1793年の恐怖政治時代のChartrier de Blainの名で知られた破壊行為であり、近年行われたマルティノーによる発掘作業でも明らかになっていない。
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