ユナイテッド・アーティスツと『キッド』
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「チャールズ・チャップリン」の記事における「ユナイテッド・アーティスツと『キッド』」の解説
『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求したが拒否された。作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 1919年2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィスとともに、新会社ユナイテッド・アーティスツを設立した。同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができた。チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなった。 ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をした。17歳の女優ミルドレッド・ハリスはチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚したが、すぐに妊娠は嘘であることが判明した。チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていた。事実、11月に次回作『サニーサイド』の撮影を始めたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べている。1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に奇形児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産したが、わずか3日後に死亡した。 チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『キッド』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えた。チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優ジャッキー・クーガンと契約し、1919年7月に撮影を始めた。撮影は順調に進んだが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『一日の行楽』を製作した。『キッド』の製作は約1年かかったが、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻した。1920年8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとした。チャップリンはそれから逃れるため、州を越えてソルトレイクシティに避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立した。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させた。1921年2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給された。 チャップリンは次回作『のらくら』の製作に5ヶ月を費やしたあと、突如としてヨーロッパ旅行を決断し、1921年9月にロンドン、パリ、ベルリンを訪問した。ロンドンとパリでは大群衆の熱狂的な歓迎を受け、著名人との社交生活を送ったが、ロンドン訪問中は少年時代を過ごしたケニントンを訪れたり、H・G・ウェルズ家に滞在したりもした。ベルリンでは大戦でチャップリン映画の配給が遅れたため知名度が低く、熱狂的な歓迎を受けなかった。帰国後、チャップリンは旅行記『My Wonderful Visit』を執筆し、残る2本のファースト・ナショナル社との契約を、1922年公開の『給料日』と1923年公開の『偽牧師』で完了させた。
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