ファースト・ナショナル社
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「チャールズ・チャップリン」の記事における「ファースト・ナショナル社」の解説
ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了した。チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望んだ。チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明した。1917年6月17日、チャップリンは新しく設立されたファースト・ナショナル社(英語版)と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結んだ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した。 チャップリンはハリウッドのサンセット大通り(英語版)とラ・ブレア通り(英語版)が交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオであるチャップリン・スタジオ(英語版)を建設し、1918年1月に完成した。このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計された。こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになった。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになった。新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『犬の生活』である。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種のピエロとして扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えた。大野は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしている。この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり、フランスの映画批評家ルイ・デリュックは「映画史上初のトータルな芸術作」と呼んだ。 1918年4月、チャップリンはダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードとともに、第一次世界大戦のための自由公債(英語版)募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説した。ワシントンD.C.で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていたフランクリン・ルーズベルトの頭上に転げ落ちたという。さらにチャップリンはアメリカ政府のために、公債購入促進を訴える短編プロパガンダ映画『公債』を自費で製作した。次作の『担へ銃』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を塹壕の兵士に変えた。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対したが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るがなかった。この作品は大戦の休戦協定の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てた。
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