ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ
英語:Viktor Yanukovych、Viktor F. Yanukovych、Viktor Fedorovych Yanukovych
ウクライナの第4代大統領。および、第9代・第12代首相。所属政党は地域党。親露派として知られる。「オレンジ革命」における大統領選の逆転負け、次期大統領選におけるユーリヤ・ティモシェンコへの勝利、および、「ユーロマイダン」における政変(事実上の政権崩壊)などに関わる。
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ1950年にウクライナ東部のドネツク州で生まれた。工学と国際法を修め、いくつかの企業・公社の社長を歴任した。1990年代半ばに政界入りし、ドネツク州議会で議員、副知事、知事を務める。2002年にウクライナ第9代首相に就任した。
2004年には第3代大統領候補として選挙に立候補し、同じく首相経験者であるヴィクトル・ユシチェンコと対決した。開票結果はヤヌコーヴィチが僅差で上回ったが、これを不正がはたらいた結果であるとして糾弾する大規模な抗議活動が起こり、裁判の末に選挙をやり直すこととなった。再選挙の結果、ユシチェンコが逆転勝利を収め、ヤヌコーヴィチは落選を喫した。
2010年に行われた大統領選でヤヌコーヴィチは再び立候補し、決選投票でユーリヤ・ティモシェンコと対決した。結果ヤヌコーヴィチが勝利し、第4代大統領に就任した。
2013年半ば、EUとの関係強化に否定的な動きを見せるヴィクトル・ヤヌコーヴィチに対し野党および民衆からの反発が激化し、デモ隊と治安部隊の衝突が起こるようになった。デモの拠点となった独立広場は、この頃ユーロマイダン(欧州広場)の名で呼ばれるようになった。2014年2月に大規模な衝突が起こり数十の死傷者を出す事態に発展、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチと側近の高官らが首都を離れ、野党が議会を掌握、ウクライナ暫定政府を立てるに至った。
関連サイト:
ヤヌコーヴィチ・ウクライナ大統領略歴 - 外務省
ヤヌコーヴィチ大統領
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「2014年ウクライナ騒乱」の記事における「ヤヌコーヴィチ大統領」の解説
2月21日、ヤヌコーヴィチ大統領と議会は2月22日-23日を抗議の結果失われた人命を悼む日であると宣言した。 2月22日、ライバックは病気を理由に議会に辞表を提出した。ヤヌコーヴィチはハルキウを訪れたという報道があったにもかかわらず、所在は不明であった(ハルキウ州知事のドブキンもヤヌコーヴィチがハルキウを訪れているということを知っている)。 オレクサンドル・トゥルチノフはザクハルチェンコ内務大臣(ベラルーシへ逃げたと報告されている)含む大部分の閣僚が姿を消したと述べた。議会では、5月25日に大統領選挙を実施する案が447人中328対0で可決され、スケジュールに組まれた。 議員達は憲法で記載されているところの弾劾方法に従わなかった。ヤヌコーヴィチ大統領は憲法違反であると宣言、緊急事態を早期選挙を行う理由として挙げた。 議員はトゥルチノフをヴェルホーヴナ・ラダの議長と大統領代行に任命した。 トゥルチノフはヤヌコーヴィチ大統領が辞任することに同意しているが、顧問との協議後に否認、辞表を提出した。ヤヌコーヴィチはトゥルチノフが辞任しないか出国しないかで議会の決定を違法であるだろうと述べた。また、世界が目撃したウクライナでの出来事はクーデターの例であると付け加え、1930年代に台頭した国家社会主義ドイツ労働者党と比較した。
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