ヤヌスの扉とは? わかりやすく解説

ヤヌス神殿

(ヤヌスの扉 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 04:31 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
テンプルム・ヤニ
Templum Iani
(Tempio di Giano)
ルーベンスが描いたヤヌス神殿
所在地 フォルム・ロマヌム
建築様式 神殿
関連項目 ローマの古代遺跡一覧

ヤヌス神殿(ヤヌスしんでん、ラテン語: Templum Ianiイタリア語: Tempio di Giano)は古代ローマフォルム・ロマヌムにあった神殿。出入口と扉を司る神であるヤヌスの像が祀られた建物の両側には扉が設けられていた。この扉は「ヤヌスの扉」と呼ばれており、古代ローマにおいて戦時に開けられ、平時に閉じられていた。日本語で、ヤヌスの神殿と表記されることもある。

歴史家リウィウス[1]によれば、王政ローマ第2代の王ヌマ・ポンピリウスが、好戦的なローマ人に対し、信仰を通じて(平和に対する)畏敬の念を抱かせることで平和を維持することができるよう、ヤヌス神を祀る神殿を建立したという伝説がある。ヤヌス神殿の建設はヌマ・ポンピリウスの最も偉大な功績であると言われている。

ヤヌスの扉

ヌマ・ポンピリウスの治世下では平和を維持し、このヤヌスの門は閉じられていた。第3代の王トゥッルス・ホスティリウスはラテン人の都市国家アルバ・ロンガに戦争を仕掛けるため、ヤヌスの門を開いた。以後、およそ400年間に渡って数多くの戦いを行い、紀元前241年に第一次ポエニ戦争を終えるまで門は開いたままであった。この時の閉門の期間は8年で終わり、イタリア北部のガリア人と戦うため、再び開門した。次に門が閉じられたのは、オクタウィアヌスアクティウムの海戦等で勝利し内乱の一世紀を集結した紀元前28年のことである。初代皇帝アウグストゥスは自らの著作「自省録 (アウグストゥス)英語版」で、自ら3度ヤヌスの門を閉じたと回顧[2]している。歴史家カッシウス・ディオによれば、アウグストゥスが門を閉じた最初の2回 は、紀元前29年と前25年である[3]と特定できる。3度目の閉門は諸説あり、Inez Scott RybergとGaius Stern説では紀元前13年、ロナルド・セイム説では紀元前7年[4]、Orosius説では紀元前1年[5]である。

ネロ帝のヤヌスの門 閉門を記念するアス硬貨

この後も、ヤヌスの門の閉門は何度も行われ、有名なのは第5代皇帝ネロと、第9代皇帝ウェスパシアヌスである。ネロ帝は平和の女神の祭壇(アラ・パキス)をデザインしたアス硬貨を発行している。帝国後期の皇帝もヤヌスの門を閉じたことはあったようだが、史料が十分でなく詳細は不明である。

建てられていた場所

ヤヌス神殿は下水溝クロアカ・マキシマ聖なる道英語版を横切る地点に、屋根付きの橋として建てられていたという。下水溝が、コミティウム英語版バシリカ・アエミリアの間にあるアルジレトゥムイタリア語版広場に達した付近であると言われている。また、バシリカ・アエミリアの改築の際には、ヤヌス神殿は少し横に移設されたのではないかと推定されている。

参考文献

  1. ^ Livy 1.19
  2. ^ Res Gestae paragraph 13
  3. ^ Cassius Dio 51.20 and 53.27
  4. ^ Ronald Syme History in Ovid (1977), 24 ff, and "Problems with Janus," AJP 100 (1979), 188 ff
  5. ^ Orosius In Paganos 6.22

ヤヌスの扉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 04:31 UTC 版)

ヤヌス神殿」の記事における「ヤヌスの扉」の解説

ヌマ・ポンピリウス治世下では平和を維持し、このヤヌスの門は閉じられていた。第3代の王トゥッルス・ホスティリウスラテン人都市国家アルバ・ロンガ戦争仕掛けるため、ヤヌスの門を開いた以後、およそ400年間に渡って数多く戦い行い紀元前241年第一次ポエニ戦争終えるまで門は開いたままであった。この時の閉門の期間は8年終わりイタリア北部ガリア人と戦うため、再び開門した。次に門が閉じられたのは、オクタウィアヌスアクティウムの海戦等で勝利し内乱の一世紀集結した紀元前28年のことである。初代皇帝アウグストゥスは自らの著作自省録 (アウグストゥス)(英語版)」で、自ら3度ヤヌスの門を閉じた回顧している。歴史家カッシウス・ディオによればアウグストゥスが門を閉じた最初の2回は、紀元前29年と前25年であると特定できる3度目閉門諸説あり、Inez Scott RybergとGaius Stern説では紀元前13年ロナルド・セイム説では紀元前7年Orosius説では紀元前1年である。 この後も、ヤヌスの門の閉門何度も行われ有名なのは第5代皇帝ネロと、第9代皇帝ウェスパシアヌスである。ネロ帝は平和の女神祭壇アラ・パキス)をデザインしたアス硬貨発行している。帝国後期皇帝ヤヌスの門を閉じたことはあったようだが、史料が十分でなく詳細不明である。

※この「ヤヌスの扉」の解説は、「ヤヌス神殿」の解説の一部です。
「ヤヌスの扉」を含む「ヤヌス神殿」の記事については、「ヤヌス神殿」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ヤヌスの扉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヤヌスの扉」の関連用語

ヤヌスの扉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヤヌスの扉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヤヌス神殿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヤヌス神殿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS