ミューチュアル社時代(1916年~1917年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 00:24 UTC 版)
「チャールズ・チャップリンの映画作品一覧」の記事における「ミューチュアル社時代(1916年~1917年)」の解説
1916年、チャップリンはミューチュアル社(英語版)と契約を結び、12本の映画に監督・主演した。すべての作品はフィルムの長さが2リールである。 公開年月日邦題 原題 クレジット備考監督脚本製作作曲役名1916年5月15日 チャップリンの替玉 The Floorwalker Yes Yes Yes No 金のない客(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンのエスカレーター』。 1916年6月12日 チャップリンの消防夫 The Fireman Yes Yes Yes No 消防夫(小さな放浪者) 1916年7月10日 チャップリンの放浪者 The Vagabond Yes Yes Yes No 流しの演奏家(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンとジプシー』。 1916年8月7日 午前一時 One A.M. Yes Yes Yes No 酔っ払い 別邦題は『チャップリンの大酔』。 1916年9月4日 チャップリンの伯爵 The Count Yes Yes Yes No 仕立て屋の見習い(小さな放浪者) 1916年10月2日 チャップリンの番頭 The Pawnshop Yes Yes Yes No 質屋の店員(小さな放浪者) 1916年11月13日 チャップリンの舞台裏 Behind the Screen Yes Yes Yes No 道具方の助手(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンの道具方』。 1916年12月4日 チャップリンのスケート The Rink Yes Yes Yes No スケート好きなウェイター(小さな放浪者) 1917年1月22日 チャップリンの勇敢 Easy Street Yes Yes Yes No 警官になる放浪者(小さな放浪者) 1917年4月16日 チャップリンの霊泉 The Cure Yes Yes Yes No 鉱泉に来たアル中の紳士(小さな放浪者) 1917年6月17日 チャップリンの移民 The Immigrant Yes Yes Yes No 移民(小さな放浪者) 1917年10月22日 チャップリンの冒険 The Adventurer Yes Yes Yes No 脱獄囚(小さな放浪者)
※この「ミューチュアル社時代(1916年~1917年)」の解説は、「チャールズ・チャップリンの映画作品一覧」の解説の一部です。
「ミューチュアル社時代(1916年~1917年)」を含む「チャールズ・チャップリンの映画作品一覧」の記事については、「チャールズ・チャップリンの映画作品一覧」の概要を参照ください。
ミューチュアル社時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「ミューチュアル社時代」の解説
1916年2月、チャップリンは年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなった。その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道された。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した。チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設した。自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになるアルバート・オースチンとエリック・キャンベル、そして腹心の友となるヘンリー・バーグマンを新たに加えた。 チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていた。しかし、1917年に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『チャップリンの勇敢』『チャップリンの霊泉』『チャップリンの移民』『チャップリンの冒険』の4本を作るのに10ヶ月を要した。これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされている。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしている。 チャップリンは第一次世界大戦で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃された。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出したが、結局どちらの国からも召喚されなかった。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気があった。チャップリンの人気は世界的に高まり続け、ハーパーズ・ウィークリー(英語版)誌は、チャップリンの名前が「世界のほぼあらゆる国に深く浸透している」と報告した。その人気ぶりは、1917年に仮面舞踏会に参加した男性の10人のうち9人までがチャップリンの扮装をしたと報告されるほどだった。舞台女優のミニー・マダン・フィスク(英語版)は「多くの教養ある芸術愛好家たちが、イギリス出身の若き道化師チャールズ・チャップリンを、天才コメディアンとしてだけでなく、世にも稀な芸術家であると考えるようになってきている」と述べている。こうした人気ぶりの一方で、チャップリンは数多くの模倣者の出現に悩まされ、彼らに対して法的措置を講じることになった。
※この「ミューチュアル社時代」の解説は、「チャールズ・チャップリン」の解説の一部です。
「ミューチュアル社時代」を含む「チャールズ・チャップリン」の記事については、「チャールズ・チャップリン」の概要を参照ください。
- ミューチュアル社時代のページへのリンク