マルクス主義思想・心情的国体論との対立と国体科学連盟結成
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「里見岸雄」の記事における「マルクス主義思想・心情的国体論との対立と国体科学連盟結成」の解説
里見は西宮で国体論の人文社会学的研究の必要を提唱した。大正から昭和にかけて、マルクス主義が台頭するとともに、従来の心情的国体論は無力化し、知識階級はもとより青年層全体の支持を失いかけていた。当時、国体論といえば、実践的にも理論的にも資本主義を擁護する主張であり、資本主義を否定するものは反国体的であると断定し、それに反対する社会主義者も、資本主義と国体とを区別しようとしていなかった。里見は昭和2年12月の『日本文化』に「国体科学を提唱す」の一文を発表し、次々と研究成果を公表。昭和3年4月に刊行した『国体に対する疑惑』は、陸軍士官学校や官私立有名大学の学生たちが抱く国体に対する疑惑に対して解明を与え、当時一大センセーションを巻き起こした他、昭和4年11月アルス社から『天皇とプロレタリア』を公刊。この書は日本史上、天皇と無産階級が対立したことはなく、当時も全く対立していないことを示す内容であったが、100版突破の大ベストセラーとなり、文字通り洛陽の紙価を高からしめた。これらの活動により、里見の理性的な国体科学の活動は、全国民各層の注目するところとなった。 里見はマルクス主義を筆頭とする過激思想と、誤った国体論の撲滅せんとして、国内や朝鮮半島、満洲、支那にも足を延ばした。昭和3年、里見は地方巡講を行いつつ、共産主義勢力の脅威に対抗するには、国体科学の旗印のもとに団結し、街頭に進出する以外なし、と決意し、国体科学連盟を創立。そして機関誌「日本文化」を「国体科学」と改題。「社会新聞」を発行した。国体科学連盟を通じて、大衆の中に橋頭保をつくりつつ、一方では国体問題の科学的解明に従事。その成果を『国体科学叢書』として刊行した。里見は第2巻『国体認識学』において、初めて法学理念としての天皇統治における「統治権」(未来への意志)と「統治実」(現状の実績)を分析した。昭和3年11月、国体科学連盟は、新帝即位大典奉祝に合わせて、円山公園をはじめ京都市内数か所で三日間にわたり、果敢な言論戦を展開した。左右両翼の誤った国体論に対して痛烈な批判を展開する連盟の影響力は絶大で、会勢はとみに拡大した。また、軍隊が“資本家の軍隊”であってはならないとして、「軍人勅諭」を軍隊内の解釈にまかせず、国体科学の立場で活釈することが急務と痛感し、昭和4年11月『軍人勅諭徹底解説』を刊行。日本軍内外に多大な反響を呼ぶなどしている。
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