マダム・オスターバーグ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:19 UTC 版)
「二階堂トクヨ」の記事における「マダム・オスターバーグ」の解説
オスターバーグとトクヨの出会いは、1913年(大正13年)1月にトクヨがKPTCに入学した時である。入学前にオスターバーグについてトクヨが知っていたことは、スウェーデン人であるということだけで、名前すら正確に把握していなかった。トクヨが入学した当時のオスターバーグは64歳で、実務はミス・ウィクナーらに任せ、自身が積極的に教壇に立つことはなくなり、引退の準備を始めていたところであった。 オスターバーグはあまり授業をしなかったため、トクヨが直接教わったのは「実地教授法」だけであるが、生徒1人ひとりに長所と短所を指摘して本入学の可否を伝えるところを目撃したり、オスターバーグの人格に接したりしたことで、トクヨの留学以後の人生をオスターバーグの存在なしに語れないほどの大きな影響を与えた。具体例を挙げると、オスターバーグの学校創立経緯を聞いてトクヨは国家的認識を高めた。オスターバーグは自身の学校を建てた理由として、よりよいスウェーデン体操を紹介すること、女子が体操教師に最適であることを証明したかったこと、独立自営的なイギリスの女性に体操教師という職が最適であることを認知させたかったことの3つだったと語った。さらに学校を建てた目的は、ロシア帝国とドイツに挟まれた祖国・スウェーデンでは富国強兵に女性の力が最重要で、有事の際には友好国・イギリスの女性の援助を受けたいと考えたからだと話した。オスターバーグはトクヨの体格を「手足の短い猪首の、まるい体の、丈のひくい」と評し、一見すると体操教師には向かないが、「今日の教授振りによりて、只天才家との賞辞を呈する外に詞はない」と絶賛した。 留学中、トクヨとオスターバーグは共通の知人である永井道明について話しており、オスターバーグはトクヨの帰国後に自身の学校を建てるように促し、協力もすると言った。トクヨに期待を寄せていたオスターバーグは、トクヨが1年半でKPTCを去ると知って「2年在学しないなら入学を許可すべきでなかった、入学した以上は2年いなければならない」と主張し、他の学校も視察せねばならないトクヨを困惑させた。最終的にオスターバーグは、トクヨが学校を去ることを許し、トクヨはイギリス国内の体操学校を訪問して1915年(大正4年)4月に日本へ帰国した。 オスターバーグは、トクヨの帰国からわずか3か月後にこの世を去った。死の直前にKPTCを国家に寄付し、「無一文で立った私は無一文で終わらねばならぬ」とトクヨに語った言葉を現実にした。トクヨは生涯オスターバーグを敬愛し、自作の花柄の刺繍入りの額縁にオスターバーグの写真を入れて居間に飾っていた。トクヨが建てた二階堂体操塾・体専にはKPTCの影響が随所に見られるが、オスターバーグが女性参政権の獲得などを目指すフェミニズムの思想を持ちながら体操教師を育成したのに対して、トクヨの教育観はフェミニズムを直接意図したものではなく、思想的背景なく技術のみ持ち込まれるという日本の典型を体現したものとなった。 オスターバーグとトクヨの大きな考え方の違いをまとめると次のようになる。 事項オスターバーグ二階堂トクヨ女性体操教師養成の意義 体操教師となって心身の健康と経済的自活を実現し、女性の権利を獲得する。 女性の地位向上のため体操教師の資質を向上する。ただし良妻賢母を体育の目的とする。 学校以外の体育 学校に女性や子供向けの学級を設置し、地域との結び付きを作る。 児童から高齢者までが体育をする生涯体育が重要である。
※この「マダム・オスターバーグ」の解説は、「二階堂トクヨ」の解説の一部です。
「マダム・オスターバーグ」を含む「二階堂トクヨ」の記事については、「二階堂トクヨ」の概要を参照ください。
- マダム・オスターバーグのページへのリンク