マゴのポー平原遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/01 04:05 UTC 版)
紀元前205年の夏、カルタゴ艦隊が突然にリグリアの海岸に出現した。軍艦30隻に加えて多くの輸送船を伴っており、14,000の陸上兵力を輸送していた。奇襲によってゲノアを陥とし、イングアニ族の土地に入り同盟関係を樹立した。また、エパンテリ族とも反ローマ同盟を結んだ。 リグリアとガリア・キサルピナはマゴの作戦に最適であった。第二次ポエニ戦争勃発前にも、ローマはポー平原で現地部族に対する勝利を収めており、殖民都市の建設を始めてはいたが、この土地のガリア人を完全に支配することはできていなかった。インスブリ族とボイイ族に率いられたガリア人は、ハンニバルの侵入(紀元前218年)直前にも反乱を起こしており、後にはハスドルバルの軍に加わっていた(紀元前207年)。ハンニバルの弟であるマゴが到着した紀元前205年も同様であった。「マゴの軍は日に日に拡大していった。名前からしてガリア人と思われる人々があらゆるところから集まってきた」この情報を得て、ローマ元老院は重大な懸念を抱き、2つの軍をアリミヌム(現在のリミニ)とアッレティウム(現在のアレッツォ)に派遣し、マゴの南下を阻止しようとした。 ローマはメタウルスの戦いの勝利によりガリア・キサルピナを征服したが、それを活用することに失敗した。しかし、マゴの上陸による危険は過大評価すべきではなかった。カルタゴからの援軍を受け取った後でも、カルタゴ軍の兵力は兵7,000、戦象7頭、軍艦25隻に過ぎず、ローマ軍の防衛線を打ち破るには全く不足していた。これがマゴがカルタゴ本国が望んだ、南下してハンニバルと合流するという目的を達成できなかった理由である。 同年(紀元前205年)の夏にスキピオの副官(レガトゥス)であるガイウス・ラエリウスがアフリカに上陸し、ヒッポ・レギウス(現在のアンナバ)付近を略奪したために、この状況に拍車がかかった。スキピオ自身によるアフリカ侵攻を阻止するため、カルタゴはあらゆる手段を講じた。背後の安全を確保するために、ヌミディアとの関係を再構築した。ローマ軍をイタリアに引き付けておくために、ブルティウムのハンニバルとインスブリアのマゴに援軍が送られ、マケドニアのピリッポス5世に外交使節を送り、イタリアまたはシチリアへの攻撃を依頼した。しかし、これらの試みの効果は大きくなかった。ピリッポスはプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスと講和して第一次マケドニア戦争は終了し、紀元前204年にスキピオはアフリカに上陸した。外部からの援助が期待できず、マゴもハンニバルもローマ軍に大きな圧力をかけることは出来なかった。ハンニバルとマゴの兄弟は、強大なローマ軍を挟んで南北に大きく隔たっていた。 マゴは、2年前に兄のハスドルバルに与えられたのと同じ使命を果たすことを求められていた。メタウルスでのハスドルバルの戦死を踏まえて、ローマ軍に対する攻撃は十分に準備された後に行うべきと考えた。このため、ガリア人とリグリア人の首長達との会談を持ち、マゴの使命は彼らをローマから解放することであることを確認し、しかしそのためにはさらに多くの兵が必要であると訴えた。リグリア人は直ちに賛同したが、ガリア人は国境及び領内をローマ軍に脅かされているために、表立って反乱を起こすことは拒否した。その代わり、秘密裏に補給物質と傭兵を提供し、マゴの兵力は多少は拡大した。 同じころ、プロコンスルのマルクス・リウィウス・サリナトルがエトルリアからガリア・キサルピナに移動して、センプロニウス・ルクレティウスと合流し、マゴの進路を遮断した。しかし、リウィウスは防御態勢に徹していた。このため紀元前204年には大きな動きはなかった。マゴは兵力不足であり、ローマも長年の戦争に疲弊し、戦意も落ちていた。 ラテン人の同盟都市の幾つかは、数年前からローマに兵・軍資金を提供するのを拒否しており、ローマの軍司令官はこれの対応に追われていた。このため、新しい兵の徴集を進める必要があった。紀元前204年の執政官の一人であるプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスは、ハンニバルに対抗するためにブルティウムに派遣され(クロトナの戦い)、もう一人のマルクス・コルネリウス・ケテグスは、エトルリア都市に反乱を起こさせるというマゴの謀略を阻止するために、エトルリアに留まる必要があった。
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