ポリネシア社会の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:11 UTC 版)
18世紀後半以降、ポリネシアの探検が一通り終了したことにより、捕鯨船と商人と宣教師がポリネシアに姿を見せるようになった。 捕鯨船はポリネシアの社会に大きな影響を与えた。18世紀から19世紀初頭にかけての捕鯨船員は、強制徴募によって集められた者が多かったため、その質は劣悪であった。こうした捕鯨船員たちの中には寄港地で脱走を図ったり、また船長に置き去りにされるケースもあったため、ポリネシアの島々に性病のほか天然痘、はしか、インフルエンザなどの伝染病をもたらし、抵抗力を持たないポリネシア人の人口は激減した。 初期の商人たちは、島民との交易のほか、中国で珍重されている白檀やナマコを目的としており、首長を人質にとって島民を使役するなど暴力的な手段に出ることもあった。また、商人たちはマスケット銃をポリネシアにもたらしたため、いち早く銃を入手した勢力によってハワイ王国やタヒチのポマレ王朝のような統一王朝が建国された。やがて商人たちは、土地の所有権という概念の薄い島民たちから、契約によって土地を入手または賃借し、コプラ、サトウキビ、コーヒー、綿などの換金作物をポリネシアに持ち込み、農園主となる者が現れた。また19世紀後半に、化学肥料の原料としてグアノが有用であることが判明すると、その採取も行われた。こうして誕生した農園では、当初は島民たちが労働者として導入されたものの、前述の事情からポリネシア人の人口は激減しており、働き手が足りなかったため、中国人、インド人、日本人、フィリピン人などの移民が招聘されることになった。このような移民たちは苦力と呼称され、低賃金で過酷な労働を強いられた。また反対に、ポリネシア人たちがブラックバーダー(英語版)(Black-birder)と呼ばれる人身売買専門の商人に拉致され、ペルーなど南米の鉱山で強制労働させられるケースもあったが、国際的な批判もあり、1864年に禁止された。 宣教師によるキリスト教の布教は、1797年にタヒチでプロテスタントの布教が行われたのが嚆矢である。ほどなくカトリックの布教も始まり、プロテスタント勢力のバックにはイギリスとアメリカ、カトリック勢力のバックにはフランスがつき、それぞれポリネシアの首長層の紛争にも介入した。トンガは1799年以降、トゥイ・トンガ、トゥイ・ハアタカラウア、トゥイ・カノクポルの間で三つ巴の内戦が勃発し、最初にトゥイ・ハアタカラウアがトゥイ・カノクポルに敗れ消滅した。1826年、ハアパイ諸島の首長であったタウファアハウ(英語版)(Taufa'ahau)にプロテスタントの宣教師が接近した。タウファアハウは軍事的な支援と引き換えにプロテスタントに改宗し、イギリス風にジョージ・ツポウ1世(George Tupou I)と改名した。これに対して、第39代トゥイ・トンガであるラウフィリトンガ(英語版)(Laufilitonga)もカトリック勢力を味方につけ、ジョージ・ツポウ1世と対立した。両勢力は同年にリフカ島で決戦を行った結果、ジョージ・ツポウ1世が勝利した。ジョージ・ツポウ1世はその後もキリスト教に反対するトンガタプ島の首長勢力から抵抗に遭ったものの、1845年に第18代トゥイ・カノクポルであるアレアモトゥア(英語版)(Aleamotuʻa)から禅譲を受け、第19代トゥイ・カノクポルとなりトンガを統一した。
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