ペスト流行と三大業績
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「アイザック・ニュートン」の記事における「ペスト流行と三大業績」の解説
また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである。学位を取得したころ、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生のときのそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。こうしてニュートンは故郷での休暇中に、「流率法( (Method of Fluxions) )と彼が呼ぶもの(将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。「ニュートンの三大業績」とされるものは、いずれもペスト禍を逃れて故郷の田舎に戻っていた18か月間の休暇中になしとげたことであり、すべて25歳ごろまでになされたものである。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているため、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。 この間に、リンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの有名な逸話がある(#リンゴについての逸話)。 1667年にペストがおさまったあとケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえにほかの1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため、ニュートンはフェローになることができ、研究費を支給されるようになった。 その年に『無限級数の解析(De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)』を発表した。これでニュートンは微分積分法について述べているが、ライプニッツもまた独立に、異なった視点から微分積分法を発見しており、のちに優先権をめぐって熾烈な争いが展開された。ニュートンの発表はライプニッツより遅かったが、ライプニッツより早く発見していたと主張し、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行った。 ニュートン式望遠鏡を考案し1668年には第一号機を完成した。改良した第二号機は1672年王立協会の例会に提出され、ニュートンが会員に推薦される理由となった。
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