フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)とは? わかりやすく解説

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フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)

(フランツ1世 (オーストリア皇帝) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 03:34 UTC 版)

フランツ2世 / フランツ1世
Franz II / Franz I
神聖ローマ皇帝
オーストリア皇帝
フランツ2世
在位 神聖ローマ皇帝:
1792年7月7日1806年8月6日
オーストリア皇帝:
1804年8月11日1835年3月2日
戴冠式 1792年7月19日
別号 ハンガリー国王
ボヘミア国王
クロアチア国王
スラヴォニア国王
ガリツィア・ロドメリア国王
オーストリア大公
クライン公
ミラノ公
ブルゴーニュ公
ブラバント公
リンブルフ公
ルクセンブルク公
チロル伯

全名
出生 (1768-02-12) 1768年2月12日
トスカーナ大公国 フィレンツェ
死去 (1835-03-02) 1835年3月2日(67歳没)
オーストリア帝国 ウィーン
埋葬 オーストリア帝国 ウィーン
カプツィーナー納骨堂
配偶者
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 レオポルト2世
母親 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
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フランツ2世ドイツ語:Franz II、1768年2月12日 - 1835年3月2日)は、最後の神聖ローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年)。神聖ローマ皇帝として退位する前に初代オーストリア皇帝フランツ1世ドイツ語: Franz I、在位:1804年 - 1835年)を兼ねることで皇帝の称号を維持した。ハンガリー国王としてはフェレンツ1世ハンガリー語: I Ferenc、在位:1792年 - 1835年)、ボヘミア国王としてはフランティシェク2世チェコ語: František II、在位:1792年 - 1835年)である。ハプスブルク=ロートリンゲン家の当主であり、全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。

生涯

フランツ2世(1792年)

トスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の長男として、トスカーナ大公国の宮廷が置かれたフィレンツェで生まれた。母はスペイン王女マリア・ルドヴィカ(国王カルロス3世の五女)。伯父のヨーゼフ2世に成長した子供がなかったことからフランツは未来の帝位継承者と見なされ、成長するとウィーンに移住して教育を受けた。1790年に伯父帝が崩御し、帝位を継承した父帝も2年後の1792年に崩御したため、神聖ローマ皇帝に即位した。なお伯父の崩御の2日前に最初の妃エリーザベトを、翌1791年にエリーザベトとの間の唯一の子である長女ルドヴィカを、さらに父帝の崩御の2か月半後に母マリア・ルドヴィカを喪っている。

即位した時には、フランス革命が進行中であった。レオポルト2世は前年の1791年にピルニッツ宣言を行って革命への介入を宣言していたが、フランツ2世の即位から間もない1792年4月20日、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発する。翌1793年にフランス国王 ルイ16世が処刑されると、第一次対仏大同盟が結成されるが、その一方で1795年ポーランド分割にも関与した[1]

オーストリア皇帝として

その後、ナポレオン戦争に巻き込まれたフランツはアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で惨敗し、カール大帝から継承されてきた「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄し、これによって神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。しかし、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリー王国を中心としてオーストリア帝国を再編。ナポレオンに神聖ローマ皇帝を簒奪される前に神聖ローマ皇帝から退位することで、形骸化した神聖ローマ皇帝に代わる称号「オーストリア皇帝」に即位した。結果フランツの君主権が及ぶ領域はドイツからドイツの外にある領域も含むハプスブルク家領に移り、「神聖ローマ皇帝」フランツ2世は「オーストリア皇帝」フランツ1世となった。新しい皇帝の称号は、フランス皇帝ナポレオンによって承認され、ナポレオン戦争後もオーストリア皇帝フランツ1世として君臨した。またクレメンス・フォン・メッテルニヒを登用し、ウィーン会議で失地を回復した[1]

国家運営をすべてメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位も神聖ローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも「善き皇帝フランツ(ドイツ語: Guten Kaiser Franz)」と称された。

家族

生涯に4度結婚した。4男9女を儲けたが、夭逝した長女を除き、全員が2番目の妻マリア・テレジアとの間の子供である。

脚注

参考文献

関連項目

爵位・家督
先代
レオポルト2世
神聖ローマ皇帝
1792年 - 1806年
次代
消滅
爵位・家督
先代
新設
オーストリア皇帝
1804年 - 1835年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
新設
ロンバルド=ヴェネト国王
1815年 - 1835年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
リポート2世
ハンガリー国王
1792年 - 1835年
次代
フェルディナーンド5世
爵位・家督
先代
レオポルド2世
ボヘミア国王
1792年 - 1835年
次代
フェルジナンド5世
爵位・家督
先代
レオポルト7世
オーストリア大公
1792年 - 1835年
次代
オーストリア皇帝位に統合
爵位・家督
先代
レオポルト2世
クライン公
1792年 - 1835年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
レオポルト2世
チロル伯
1792年 - 1805年
1814年 - 1835年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
レオポルド1世
ミラノ公
1792年 - 1796年
1814年 - 1815年
次代
消滅
爵位・家督
先代
レオポルド
ブルゴーニュ公
1792年 - 1795年
次代
消滅
爵位・家督
先代
レオポルド1世
ブラバント公
1792年 - 1794年
次代
空位
爵位・家督
先代
レオポルト
リンブルフ公
1792年 - 1794年
次代
空位
爵位・家督
先代
レオポルト
ルクセンブルク公
1792年 - 1794年
次代
消滅



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