マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ_(1798-1881)とは? わかりやすく解説

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マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ (1798-1881)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 06:18 UTC 版)

マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ
Maria Clementina d'Asburgo-Lorena
オーストリア大公女・サレルノ公爵夫人マリーア・クレメンティーナ

出生 (1798-03-01) 1798年3月1日
ハプスブルク帝国ウィーン
死去 (1881-09-03) 1881年9月3日(83歳没)
フランス共和国シャンティイ城
配偶者 サレルノレオポルド
子女 マリーア・カロリーナ
父親 オーストリア皇帝フランツ2世(1世)
母親 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
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マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナイタリア語Maria Clementina d'Asburgo-Lorena, 1798年3月1日 - 1881年9月3日)は、両シチリア王子・サレルノレオポルドの妃。

生涯

神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)とその皇后マリア・テレジアの五女として、ウィーンで生まれた。ドイツ語名はマリア・クレメンティーネ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Klementine von Habsburg-Lothringen)。パルマ女公マリア・ルイーザ、オーストリア皇帝フェルディナンド1世ブラジル皇后マリア・レオポルディナの妹にあたる。

1816年、母の実弟で8歳しか年齢が違わない叔父にあたるレオポルド王子と結婚、4子をもうけるが、成人したのはマリーア・カロリーナただ一人であった。マリーア・カロリーナは、フランス王ルイ・フィリップの息子オマール公アンリと結婚した。1851年にレオポルドと死別後、マリーア・クレメンティーナは娘夫婦の元に身を寄せた。

1869年にマリーア・カロリーナが死去。その後も義理の息子アンリと暮らし、1881年にシャンティイ城で死去した。




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