マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイアとは? わかりやすく解説

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マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 10:01 UTC 版)

マリーア・クリスティーナ
Maria Cristina
両シチリア王妃
在位 1832年 - 1836年

出生 1812年11月14日
サルデーニャ王国カリャリ
死去 (1836-01-21) 1836年1月21日(23歳没)
両シチリア王国ナポリ
埋葬 両シチリア王国、ナポリ、サンタ・キアラ聖堂
結婚 1832年11月21日 ジェノヴァ
配偶者 両シチリアフェルディナンド2世
子女 フランチェスコ2世
家名 サヴォイア=ブレッセ家
父親 サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世
母親 マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ
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福者マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 2014年
列福決定者 フランシスコ
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マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア(Maria Cristina di Savoia, 1812年11月14日 - 1836年1月21日)は、両シチリアフェルディナンド2世の最初の王妃。

生涯

サルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ1世と王妃マリーア・テレーザの六女(第7子)として、カリャリで生まれた。

母方の祖父母はオーストリア=エステ大公のフェルディナントとマッサ=カッラーラ女公マリーア・ベアトリーチェ・デステ。フェルディナンドは、神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの3人目の息子。マリーア・ベアトリーチェは、モデナ公エルコレ3世・デステとマッサ=カッラーラ女公マリーア・テレーザの長女だった。

1832年11月21日、両シチリア王フェルディナンドと結婚した。マリーア・クリスティーナは20歳、フェルディナンドは22歳だった。

マリーア・クリスティーナは、美人ではあるが臆病で内気とも言われ、彼女にとって宮廷は心地よいところではなかった。フェルディナンドとの関係性は悪く、フェルディナンドは彼女の内気で神経質な性格に我慢ならなかった。

1836年1月16日に23歳で長男フランチェスコ(のちのフランチェスコ2世)を生むが、5日後に急死した。

マリーア・クリスティーナは2014年、教皇フランシスコにより列福された[1]

脚注

  1. ^ 教皇フランシスコの2014年1月26日の「お告げの祈り」のことば わたしについて来なさい”. カトリック中央協議会 (2014年1月21日). 2021年8月11日閲覧。



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