マリーア・カロリーナ・ディ・サヴォイアとは? わかりやすく解説

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マリーア・カロリーナ・ディ・サヴォイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 17:39 UTC 版)

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マリーア・カロリーナ・ディ・サヴォイア
Maria Carolina di Savoia

出生 (1764-01-17) 1764年1月17日
サルデーニャ王国トリノ、トリノ王宮
死去 (1782-12-28) 1782年12月28日(18歳没)
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
埋葬 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン、カトリック宮廷教会
配偶者 ザクセン王子アントン
家名 サヴォイア=ブレッセ家
父親 サルデーニャヴィットーリオ・アメデーオ3世
母親 マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ
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マリーア・カロリーナ・アントニエッタ・アデライーダ・ディ・サヴォイアMaria Carolina Antonietta Adelaide di Savoia, 1764年1月17日 - 1782年12月28日)は、イタリアサヴォイア家の王女で、ザクセンアントンの最初の妻。夫の即位する45年前、ザクセン選帝侯領が王国に昇格する24年前に死去したため、王妃ではない。

生涯

サルデーニャヴィットーリオ・アメデーオ3世とその妻でスペインフェリペ5世の娘であるマリーア・アントニエッタの間の第10子、六女として生まれた。ザクセン公子アントンとの結婚が決まり、1781年9月28日にストゥピニージ宮殿において代理結婚式が、同年10月24日にドレスデンで正式な結婚式が執り行われた。王女の結婚に際し、トリノでは王宮やパラッツォ・ゴンティエーリで盛大な祝宴が開かれた[1]。しかしこの結婚に乗り気でなかったマリーア・カロリーナは婚家になじめず、結婚後1年ほどで天然痘に罹患して18歳で死去した。遺骸はドレスデンのカトリック宮廷教会に葬られた。夫は1787年にオーストリア大公女マリア・テレジアと再婚した。

マリーア・カロリーナの郷里での人気は高く、詩人グイド・ゴッツァーノも「Poesie Sparse」という詩集の中に王女を登場させている[2]

脚注

  1. ^ Luigi Bassignana, Torino in Festa, pp. 142-144, 2004, Torino Incontra
  2. ^ randi Classici, Italian literature”. Sapere.it. 2010年2月2日閲覧。

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、Maria Carolina di Savoiaに関するカテゴリがあります。




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