フェアフィールドとモンテレー・パス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:46 UTC 版)
「ゲティスバーグからの撤退」の記事における「フェアフィールドとモンテレー・パス」の解説
7月4日の暗くなってから、A・P・ヒルの第3軍団がフェアフィールド道路を進発し、その後にジェイムズ・ロングストリート中将の第1軍団とリチャード・イーウェル中将の第2軍団が続いた。リーはヒルと共に部隊の先頭に付いた。リーはスチュアートに、ジョン・R・チャンブリス大佐とアルバート・G・ジェンキンス准将(ミルトン・ファーガソン大佐が指揮)の旅団にエミッツバーグから左後方を遮蔽させるよう命じた。暗くなってからの出発だったので、リー軍は数時間先行することができ、ゲティスバーグ戦場の西側からウィリアムズポートに向かう道はポトマック軍が選択できる道の半分ほどの距離という利点があった。 ミードは、リーが再攻撃を意図しているか確信が持てなかったために即座の追撃開始を逡巡し、またその命令はボルティモアやワシントンD.C.を守ることを要求し続けていた。ミードは南軍がサウス山の峠道に十分な防御を施していると考えたので、サウス山の東側でリー軍を追撃すると決断し、フレデリック西側の峠を直ぐにでも抑えるための強行軍を行い、カンバーランド渓谷を後退するリー軍の左側面を脅かそうとした。もしミードがフェアフィールドを抑えておれば、リー軍はその後方をゲティスバーグでポトマック軍に曝したまま、フェアフィールドを抜ける過程で戦うか、ヘイガーズタウンに向かうにはかなり難しい径路であるキャッシュタウン・パスを抜けて行く道を全軍が選ぶかを強いられているはずだった。 7月3日、ピケットの突撃が進行中の頃、北軍の騎兵隊はリー軍の退却路となった所を遮断できる唯一の可能性があった。ウェズリー・メリット准将の旅団が騎兵隊指揮官アルフレッド・プレソントン少将から、エミッツバーグから発進してセミナリーリッジに沿った南軍の左と後方を叩くよう命令を受けた。地元の市民からフェアフィールド近くに南軍の飼料馬車があるという情報に反応したメリットはサミュエル・H・スター少佐の第6アメリカ騎兵隊から4大隊約400名をその荷車の捕獲に派遣した。この部隊が荷車の所に到着する前に、ウィリアム・E・"グランブル"・ジョーンズ准将の指揮する第7バージニア騎兵隊が妨害し、小さなフェアフィールドの戦いが起こった。北軍の騎兵は柱とレールの柵背後に陣取って攻撃を始めバージニア部隊を撤退させた。ジョーンズは第6バージニア騎兵隊を送り込み、うまく突撃して北軍騎兵に襲いかかり、スターを負傷させ捕獲した。北軍の損失は捕虜が大半で242名となり、南軍の損失は44名だった。これは比較的小さな戦闘だったが、その結果として戦略的に重要なサウス山峠道に繋がるフェアフィールド道路が開いたままとなった。 7月4日早く、ミードはその騎兵隊を派遣して「彼の撤退をできるだけ苦しめ悩ます」ために敵の後方と通信線を叩かせることにした。9個騎兵旅団があったうちの8個旅団(デイビッド・グレッグ准将師団のジョン・B・マッキントッシュ大佐旅団を除く)が進発した。J・アービング・グレッグ(従兄弟であるデイビッド・グレッグの師団)の旅団がハンターズタウンとマンマスバーグを経由してキャッシュタウンに向かったが、その他全旅団はゲティスバーグの南に動いた。ジョン・ビュフォード准将の師団は直接ウェストミンスターからフレデリックに向かい、7月5日の夜にメリットの師団と合流した。 7月4日遅く、ミードは作戦会議を開催し、軍団長達はリーが行動を起こすまで自軍はゲティスバーグに留まるべきということと、騎兵隊は撤退中のリー軍を追撃すべきということで合意した。ミードは、ゲティスバーグの戦いにほとんど関わらなかったジョン・セジウィック少将の第6軍団から1個師団をガバヌーア・ウォーレン准将に預け、南軍の前線を探りリーの意図を判断させることにした。ミードはバターフィールドに全軍移動の準備を命じ、セジウィック(第1,第3および第5軍団)、ヘンリー・W・スローカム少将(第2および第12軍団)およびオリバー・O・ハワード少将(第5および第11軍団)の3つの翼に再編成した。7月5日の朝までに、ミードはリーが出発したことを知ったが、ウォーレンの偵察結果を知るまで全体追撃命令を出すことを逡巡した。 モンテレー・パスの戦いは、ジャドソン・キルパトリック准将の騎兵師団が7月4日の暗くなる前にフェアフィールド近くに到着したときに始まった。キルパトリック隊はビバリー・ロバートソン准将の前哨線を容易に蹴散らし、G・M・イーマック大尉の第1メリーランド騎兵大隊からの20名分遣隊がモンテレー・パスを守っているのに遭遇した。このメリーランド部隊は第4ノースカロライナ騎兵隊の分遣隊と1門の大砲に助けられて、4,500名からなる北軍騎兵隊の前進を夜半過ぎになるまで遅らせた。キルパトリックは暗闇の中で何も見えず、自隊が「危険な状況」にあると考えた。ジョージ・アームストロング・カスター准将に命じて第6ミシガン騎兵隊と共に南軍への突撃を命じ、これが行き詰まりを打開してキルパトリック隊は輜重隊の所まで到達し攻撃できた。この部隊は多くの荷車を捕獲または破壊し、主に救急車に乗っていた負傷兵1,360名を捕獲し、数多い馬やロバも捕らえた。 モンテレー・パスの戦い後、キルパトリック師団は7月5日午後2時頃にスミスバーグに到着した。スチュアートはチャンブリスとファーガソンの旅団を率いてサウス山から到着した。騎馬砲兵隊の砲撃戦が起こり、その小さな町にいくらか損傷を与えた。キルパトリックは日没時に、「捕虜、動物および荷車を救うために」撤退し、夜半前にブーンズバラに到着した。
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