フィリップ2世尊厳王とリチャード1世獅子心王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:35 UTC 版)
「アンジュー帝国」の記事における「フィリップ2世尊厳王とリチャード1世獅子心王」の解説
1180年にルイ7世が死ぬと、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。1183年にその息子はわずか15歳でフランス王位に登り詰めた。フィリップ2世尊厳王の政策はヘンリー2世の息子達を父王に反逆させることである。リチャードは1175年以来アキテーヌを統治したが、その中央集権的な政策は東部のペリゴールやリモージュでは不人気ではあった。リチャードは殺害や強姦といった多くの犯罪行為で非難を受けた。もしリチャードが本当にアキテーヌで人気がなかったのなら、フィリップ2世も同時代の人が「狡猾で、ごまかしが効き、計算深く、貧乏で女々しい君主」と記しているように本当に好かれなかったであろう。 1183年にヘンリー若王はリチャードの領地を強奪するためにジェフリー・オブ・リュジニャンとともにリモージュで反旗を翻した。2人にはフィリップ2世、レーモン5世、ブルゴーニュ公ユーグ3世が加わった。同年にヘンリー若王が致命的な病で急死したことでリチャードは救われた。ヘンリー若王はルーアン大聖堂に埋葬された。 この時点でリチャードはヘンリー2世の最年長の息子であり、ヘンリー若王の地位を相続した。ヘンリー2世はリチャードに対してアキテーヌをジョンに譲るように命じたが、リチャードは拒絶した。この時ヘンリー2世は、ウェールズ諸侯の挑戦、ウィリアム1世の城の返還要求、フィリップ2世からの若ヘンリー死去に伴うノルマンディー・ヴェクサンの要求といった多くの物事に対処しなければならなかった。ヘンリー2世は最終的にアキテーヌをアリエノールに渡すようリチャードに求めたが、リチャードは同地を支配したままだった。1183年までにレーモン5世はカオールを奪還し、ヘンリー2世はリチャードに対してトゥールーズへの遠征を求めた。ジョフロワ2世はリチャードと不和になり、このことは明らかにカペー家に利用されそうになったが、1186年の槍試合で不慮の死を遂げた。1187年にはフィリップ2世とリチャードはロジャー・オブ・ホーヴデンが報告しているように強力な同盟者となった。 イングランド王は強い驚きに襲われ、この「同盟」は何を意味するのかと困惑し、警戒するようになり、次第にフランスに対してリチャードを召還するようフランスに手紙を送るようになった。そのリチャードは平和的にその気になってシノン経由で父の許に帰る準備をする振りをしながら、自らが囚われの身でもあるにもかかわらず、父の遺産の一部を横領して、ポワトゥー地方の自らの城を要塞化して、父の許に帰るのを拒否した。 ジェフリー・オブ・リュジニャンも加わってレーモン5世は1188年に再び攻撃した。ヘンリー2世自らが反乱に資金提供をしたと噂された。この頃までにフィリップ2世はノルマンディーのヘンリー2世を攻撃して、ベリーの要塞を占領した。1188年にフィリップ2世とヘンリー2世は和平について再び話し合い、ヘンリー2世はリチャードを自らの後継者とすることを拒否した。リチャードは「ようやく今自分が不可能な身であることが分かった」と語った、とある話は報告している。 ここにヘンリー2世の全戦略は崩壊した。第一に、リチャードはヘンリー2世が獲得した全領地を抵当に入れてフランス王に臣従した。リチャードとフィリップがヘンリー2世を攻撃すると(アキテーヌではヘンリー2世のために誰も立ち上がらなかった)、ブルトン人もヘンリー2世に対する攻撃の機会を捉えた。ヘンリー2世の出生の地であるル・マンですら占領され、トゥールーズも間もなく陥落した。ヘンリー2世は自分のシノン城を取り囲んだだけであった。ヘンリー2世は最終的に降伏を余儀なくされた。ヘンリー2世はフィリップ2世に莫大な貢税を払い、リチャードをフランスとイングランドの領主とするというフィリップ2世の案に誓約した。ヘンリー2世は2日後に死去し、その報はジョン、リチャード、フィリップ2世の許に伝えられた。ヘンリー2世はフォントヴロー修道院に埋葬された。 ヘンリー2世の王妃であったアリエノールは自由の身となり、リース・アプ・グリフィズは再起してヘンリー2世に吸収されていた南ウェールズの再征服に取りかかった。1189年11月にウェストミンスター寺院でリチャードはイングランド王リチャード1世として即位したが、既にノルマンディー公、アンジュー伯、アキテーヌ公となっていた。フィリップ2世はノルマンディー・ヴェクサンの返還を求めたが、リチャード1世がフィリップ2世の姉であるアリスとの婚約を発表して問題は解決した。リチャード1世はまたオーヴェルニュがアキテーヌ公ではなくフランス王に属することを認め、ヘンリー2世の主張を退けた。ブリテン島ではスコットランド王ウィリアム1世(獅子王)とファレーズ条約の撤回について交渉し、合意に達した。
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