パリ定住後
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パリに定住したのは1952年であった。1954年にキャパ自らによりマグナムから除名された。マッカーシズム(反共産主義、赤狩り)が猛威を振るった1950年代に共産主義者の疑いをかけられ、米国入国が禁じられたからであり、キャパはこのようなフロイントの存在によりマグナム・ニューヨーク事務所の活動および将来に影響を及ぼすと考えたためであるとされる。 1968年にパリ市立近代美術館で最初の大規模なフロイント展が開催された。これにより、フロイントの名は世界的に知られることになったが、60歳になった彼女は以後、執筆活動に専念した。1974年には写真史家として名を残す契機となった著書『写真と社会』を発表した。博士論文「19世紀フランスにおける写真」をさらに発展させ、ドイツやアメリカにおける写真報道やマスメディア雑誌、写真と政治や法律との関係、新しい動向としてのアマチュア写真までより広い視野で論じている。本書はドイツ語、オランダ語、日本語、英語に翻訳され、現在でも写真史を語るときにしばしば引用される重要な文献である。 1981年に、フランソワ・ミッテランが大統領に就任すると、彼自らの指名により大統領の公式写真を撮影した。フロイントはこれまでと同様に、撮影の前に「お孫さんの話をしたら、(ミッテランは)そっと微笑んだ」という。 1991年から92年にかけて、ポンピドゥー・センター内国立近代美術館で大規模な回顧展が行われた。日本でも、2007年に国立新美術館で同美術館所蔵作品を紹介する「異邦人(エトランジェ)たちのパリ 1900-2005」展が開催されたときに、フロイントの代表的な肖像写真7点(ジッド、ベンヤミン、サルトル、ジョイス、ミショー、マルロー、ブルトン)が展示された。 1977年にドクメンタ 6(ヘッセン州カッセルで5年ごとに開催される世界最大規模の現代美術展の第6回で、芸術総監督はマンフレート・シュネッケンブルガー(ドイツ語版))に参加し、同年、フランス創造写真協会連盟の会長に就任した。また、フランス文化省の第3回国家写真大賞(フランス語版)(第1回はブラッサイ、第2回はウィリー・ロニが受賞)、ドイツ写真協会の文化功労賞、芸術文化勲章、レジオンドヌール勲章など多くの栄誉を得た。
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