パリ大賞典の計画
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モルニー公爵は、ロンシャン競馬場の春開催の名物となる新しい大競走を創設することにした。彼の構想では、新しい競走は、イギリスダービー優勝馬とフランスダービー優勝馬が対決する、フランスでは初の本格的な国際大競走になるはずだった。 これにはいくつか解決しなければならない問題があった。一つめは資金の問題だった。競馬を主催するフランス馬種改良奨励協会は、フランス産馬の向上のための組織であり、外国馬が出走する競走には賞金を出すことができなかった。そこでモルニー公は、市議会に諮ってパリ市の予算から5万フランを供出することに成功した。また、パリの5つの鉄道公社にそれぞれ2万フランずつ賞金を提供させることにも成功した(そのうち1社はモルニー公が社長を務めていた。)。ナポレオン3世も皇室から美術品を提供することに同意した。こうして、当時世界最高の賞金を誇っていたイギリスダービーを超える高額賞金が確保された。 開催時期にも問題があった。ロンシャン競馬場の春季開催は4月と5月に行うことがパリ市との契約で定められていたが、イギリスダービーは5月の下旬に行われるため、この優勝馬が出走するためには開催を6月まで延ばす必要があると思われた。イギリスのジョッキークラブを独裁的に取り仕切っていたヘンリー・ラウス提督との協議を経て、新しい大競走はイギリスダービーの11日後の5月31日に行うことにした。イギリスとフランスのダービー(2400メートル)優勝馬以外にもチャンスを与えて競走をより面白いものにするために、競走の距離は3000メートルとすることになった この開催日について、イギリスからは反対の声もあった。5月31日は日曜日で、イギリスではキリスト教の安息休日である日曜日には競馬を行わない習わしだった。このためイギリスの主要な馬主の何人かは日曜日の開催に異を唱えた。フランスでは日曜日に競馬を行うのはごく当たり前のことだった。 フランス人にもこの競走に反対する者がいたが、その理由は、イギリス馬と競走するとフランス馬が負けるからというものだった。フランスの競馬はもともとイギリスを真似て始まったもので、19世紀になっても毎年1万頭以上の競走馬をイギリスからの輸入に頼っていた。フランスでサラブレッドの生産が本格的になってから、まだほんの2、30年しかたっておらず、フランスの馬は英国馬に比べてまだずっと格下だと思われていた。
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