パラオ南洋庁時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)
中島敦は転地療養を兼ねてパラオ・コロール町(コロール島のコロール)の南洋庁の編修書記に任じられ、現地の教科書作成業務に携わりながら「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」や「南島譚」の題材を得るが、7月末から9月初めころまでアメーバ赤痢やデング熱にもみまわれ、下痢や高熱、身体中痒くなるなど、執筆活動や勤務が難しい状態にあった。 南洋庁では職員らとそりが合わず孤立したものの、東京美術学校彫刻科出身の土方久功や熱帯生物研究所の若い学者ら(大平辰秋など)、竹内虎三というヤルート支庁の役人とは親しかった。敦のことを「トンちゃん」と呼んでいた土方は、自身の旅行日記や、それを素材とする「南方離島記」の草稿を敦に見せたり、南洋群島を一周する出張旅行にも同行したりした。 パラオに出発する前、深田久弥に「古譚」や「ツシタラの死」などいくつかの原稿を出発前に託していた敦は、深田が自分の作品を推薦して文芸誌に掲載してくれることを期待し、各島への出張のときは父と妻に細々とした日程を手紙に書き送っていたが、深田からはいっこうに何の連絡もなく、家族から送付してもらった文芸誌にも自分の作品が載る気配はなく失望していた。 そのため、パラオ滞在末期の11月9日には、妻タカに向け、「オレが死んだら」、深田に預けた原稿をほかの原稿と一緒にしまっておき、桓(長男)が成人して文学を愛好するようなら渡してほしい、という主旨の手紙をしたためることになる。一方、深田は敦が旅立ってから半年後になってから、ようやく中島の原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした。託された4篇からなる「古譚」の原稿を深田は『文學界』に推薦し、その中から編集者の河上徹太郎が2篇(「山月記」「文字禍」)の掲載を決めた。 喘息快癒を期待してパラオに赴任した敦だったが、雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなった。また、現地の島民たちに十分な住居と食べ物を与えることが次第にできなくなりつつある時勢の中、新しい教科書ばかり作ることの無意味さが判った敦は、自然と共存しながら暮らしている島民を慮って、「なまじつか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れない」と感じ教科書編纂の仕事にも熱意をなくしていった。 日本でしか味わえないもの(天ぷら、そば、四季折々の食べ物)がパラオでは食べられないわびしさや、妻や2人の子供(桓と格)が恋しいこともあったが、何よりも、文化人・教養人にとっては「精神的には完全な島流し」のような生活が耐えがたく、あまりに息苦しい暑さで頭の働きが鈍くなり小説が書けず、「身体も頭脳も駄目になって了う」熱帯の地には長く居られないことも帰国したい大きな理由の一つであった。 そのため敦は12月31日、心臓性喘息のため激務に適さないと記して東京出張所勤務を希望することを課長に申し出て、翌年1942年(昭和17年)3月4日、土方久功とともに東京に向かう船に乗った。
※この「パラオ南洋庁時代」の解説は、「中島敦」の解説の一部です。
「パラオ南洋庁時代」を含む「中島敦」の記事については、「中島敦」の概要を参照ください。
- パラオ南洋庁時代のページへのリンク