ニュープロビデンス島時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 14:47 UTC 版)
植民地主義、貿易、海賊の歴史を持つ西インド諸島(カリブ海)は、17世紀と18世紀の多くの海での事件の舞台だった。私掠船から海賊となったヘンリー・ジェニングスと、彼の後継者たちは18世紀の初め頃に、統治機構が撤退したニュープロビデンス島を拠点として使うことにした(海賊共和国)。それはフロリダ海峡と大西洋を通過するヨーロッパの船で往来が激しい航路に容易く手を出せる位置にあった。ニュープロビデンスの港は、何百もの船を容易に収容できる一方で、イギリス海軍の大型船が航行するには浅いという特徴があった。作家のジョージ・ウッドベリーはニュープロビデンス島を「家がない街。文字通り浮浪する者たちの一時的な滞在と快楽の場所だった」と続け、「定住者は海賊の支持者か貿易業者、死刑執行人くらいだった。他のものはすべて一時的な滞在者にすぎなかった」と記す。ニュープロビデンスでは海賊は歓迎され休息を得られた。 ティーチは島の恩恵を受けるようになった者たちの一人だった。1713年にユトレヒト条約が調印された直後に、おそらく彼はジャマイカから移住し、かつて戦争に関わった私掠船の仲間とともに海賊稼業に関わるようになった。推定では1716年頃にニュープロビデンスの安定的な海域で活動していた有名な海賊船長ベンジャミン・ホーニゴールドの手下になった。1716年にホーニゴールドは拿捕したスループ船の船長としてティーチを任命した。1717年初頭に、それぞれスループ船を指揮するホーニゴールドとティーチは本土へと向かい、ハバナから出港した120バレルの小麦粉を運ぶ船舶や、さらに間もなくバミューダ諸島から出向した100バレルのワインを運ぶスループ船を拿捕した。数日後、船はマデイラからカロライナ植民地のチャールズタウンへの航行中に停止した。その時、ティーチと彼の操舵長ウィリアム・ハワードは手下たちに対する指揮に悩んでいたかもしれない。9月29日、チャールズ岬の近くで、バージニア植民地のベティ号から、その船が沈む前にマデイラからの荷物を積み込んでおり、おそらく彼らはマデイラ・ワインを堪能していた。 このホーニゴールドとの航海中に、ティーチが自分の意志で大勢の船員を指揮する海賊だという最初期の記録が作られた。ノースカロライナで海賊に対する哨戒を行っていたMathew Munthe船長の報告によれば、ティーチ(Thatch)は「大砲6門と砲手6人、約70人の手下」を指揮しているとされていた。9月にホーニゴールドとティーチは、大地主で武官を務める裕福な家の出身だがその年の頭に海賊を始めたスティード・ボネットと出会う。約70人のボネットの手下達は彼の指揮に不満を持っていたと伝えられ、そのため、ティーチはボネットの許可を得て、指揮権を彼らの船リベンジ号ごと引き継いだ。こうしてティーチが乗るリベンジ号と、彼の元いた船、そしてホーニゴールドのレンジャー号と、彼らの海賊団は3隻での構成となった。10月までに別の船がさらに鹵獲され、船団に加えられた。1717年10月22日に2隻のスループ船、フィラデルフィアのロバート号とダブリンのグッド・インテント号が海上で襲撃され、彼らの積荷は残らず奪われた。 元イギリス軍の兵士としてホーニゴールドは、元々の敵(スペインやフランス)の船だけを標的にしていた。しかし、襲われることなく貴重な物資を運ぶイギリス船が多く見られるようになると、1717年末に手下たちはホーニゴールドを船長の役から引きずり下ろした。ティーチがこの決定にどのように関与したのかは不明だが、間もなくホーニゴールドは海賊稼業から足を洗った。ホーニゴールドはレンジャー号ともう1隻のスループ船を持って去り、ティーチはリベンジ号と残りの1隻を受け取った。そして翌年6月、ニュープロビデンス島の多くの住民と共にホーニゴールドはウッズ・ロジャーズから王の恩赦を受けることとなり、ティーチとホーニゴールドが会うことは二度となかった。
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