トリック事件
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ところが1974年5月7日、東京芝のスタジオで『週刊朝日』取材班の撮影を受けた時、マルチストロボ使用の分解写真によりトリックを暴かれるに至る。同年5月24日号の『週刊朝日』に掲載された「科学的テストで遂にボロが出た! "超能力ブーム"に終止符」によると、スプーンは太ももか腹に押し当てて曲げたもの、針金はあらかじめ曲げてあったものとすり替えて投げていただけだったという。この時のトリック使用については関口淳当人も「あの日、撮影のために何時間もスプーン曲げをやらされていて、もうヘトヘトになっていました。最後には、根負けして、すでに折れまがっていたスプーンを拾って投げちゃった」と認め、淳の母は「細工をするところまで息子を追い込んでしまった」と謝罪した。これ以後、日本の超能力ブームは急速に衰退した。 これは、当時の社会現象に興味を持っていた、同誌デスクの稲垣武が立てた企画であった。稲垣はもともと超能力に関心があったが、これが物理的なエネルギー分野まで及ぶとは信じていなかった。しかし頭から否定することは非科学的であると考え、科学的な実験で証明できないものかと考えたのである。なお、同誌では証拠を突きつけられて子供の非を認める母親の手記も掲載された。 柴錬はこの取材に対して大きな反感を持ち、随筆に「スプーン曲げ騒動は、『週刊朝日』の最も優秀なホモ・サピエンス的編集者が、超心理学研究家と称し乍ら実は常識的合理主義の俗物中の俗物である石頭やら大道香具師的手品師やら『朝日』おかかえの科学評論家やらを集めて、私の百分の一ぐらいの低能力の嘘をつきまくって、超能力ブームを手品以前のトリックときめつけたおかげで、いよいよ、てんやわんやとなった模様だが、その特集号が売り切れた由だから、合理主義万能の現代にあっては、あっぱれな編集部の合理主義の勝利であった、と敬意を表したい」と散々嫌味を述べている。もっとも柴錬は、関口甫に関しては「口髭を生やした父親が売名好みの饒舌を弄するインチキくさいのを怪しんで」いる 関口淳は後年、 「マスコミの人って、けっこうヤラセをさせるんですよね。打ち合わせのときなどに、簡単にスプーンを曲げてみせるでしょう。そうすると、『これは本物だ』となり、本番の写真撮影やテレビのビデオ撮りのときに、何時間かけてもうまくいかなかったりすると、『もういいよ。君が本物だということは知っているから』と言って、ヤラセですませてしまおう、ということになるんです。子供ですから、僕は漠然と『そういうものなのかな』と思ってました。『週刊朝日』のときも、他のおじさん達と同様に、それで許してくれるんじゃないか、いい写真が撮れたって喜んでくれるんじゃないかって、思ってたんです」 「『週刊朝日』の一件は、今となってみれば、よかったのかなと思います。現実の壁の厚さっていうんですか。そういうものにぶち当たって、僕は自分が普通の無力な人間だと思い知ることができた。そうでなくて、あのままうまくいっていたとしたら、オウムの連中のように、自分のことを普通の人間ではない、選ばれた人間だと思い込んでいたかもしれない」 「僕は教祖になんかなりたくない。実際、新興宗教を作りたいから教祖になってくれないか、金はいくらでも出すという誘いを何回も受けましたが、すべて断りました」 と語っている。 父の関口甫によると、この後5月14日に『週刊平凡』の記者たちの前で、手を触れず念の力だけでスプーンを曲げたが、そのことは一行も記事にしてもらえなかった、という。甫は1992年の『週刊新潮』の取材でも「息子の超能力は本物だった」「4時間半にわたるテストの結果、疲労困憊した淳が手で曲げてしまった。その部分だけが拡大されて報じられ、淳の超能力の全てがインチキ扱いされたのは残念」と語っている。 泉麻人は、当時の日本においてはユリ・ゲラーよりも関口が多くの批判を集めていたこと、「超能力番組を告発する会」が結成され、ブームが終局を迎えたことを自著で紹介している。
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