トヨタへの取引の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:28 UTC 版)
「岐阜車体工業」の記事における「トヨタへの取引の始まり」の解説
後に当社の一部となる「星野商店」(後の星野鋼機)は、1948年(昭和23年)にプレス機を導入して当社に鋼材やボディー部品を納入するようになり、翌年の1949年(昭和24年)には「トヨタ自動車工業」へプレス加工部品を納入し始め、トヨタグループとの取引が始まることになった。 しかし、バッテリーハンガーやラジエーターグリル等のトラック向けの部品をトヨタから受注したものの、生産技術が低かったため不良品が続出することになった。 そのため、最悪の時には従業員の半数以上が修正作業に従事したことから、売上が以前の約4分の1に落ち込んで赤字となり、給与の遅配が3ヶ月にも及ぶ危機的な状況に陥ることになった。 この様にトヨタとの取引の立ち上がりは大変苦戦したものの、その後の朝鮮戦争に伴う特需の際にはトヨタ自動車工業から軍用トラックを大量受注することに繋がっていった。 なお、この初期の「トヨタ自動車工業」との取引は間接的なもので、直接取引が始まったのは1959年(昭和34年)8月の「T10トレーラー」からであった。 当時、当社が主力としていたトラック車体の製造は、各自動車販売店などから個別に受注する多品種少量生産ものであったことから、当社の経営陣は限界を感じるようになっていった。 そのため、完成車メーカーであるトヨタとの取引拡大に取り組むことになり、生産体制の見直しに着手した。 その一環として、1956年(昭和31年)9月には「星野鋼機」を吸収合併して吹上工場とし、当社はプレス加工を社内に取り込んでトラック車体の金属化に対応する体制を整え始めた。 また、1957年(昭和32年)には、トヨタ車体に鉄製ボディの製造を習得するための研修生を派遣したのを皮切りに、その後設計部門にも実習に行かせるなど、鉄製ボディの自動車生産のノウハウの習得を進めて行った。 こうして得た技術と日本電信電話公社(現・NTT)や日本国有鉄道(現・JR)などの特装車での製造技術を生かし、ランドクルーザーのバンタイプとして販売された「FJ28型」のボディを多く受注することに成功した。 この「ランドクルーザーFJ28型」のボディ生産での実績が認められたことで、「ランドクルーザー」用のトレーラーである「T10トレーラー」を受注することになり、1959年(昭和34年)8月から「トヨタ自動車工業」本体との直接取引が始まることになった。 さらに、「ランドクルーザーFJ28型」をロングホイールベース型である「ランドクルーザーFJ35V型」では設計段階から参画し、単なる製造請負から脱皮していった。 しかし、「ランドクルーザー」の生産を請け負い始めた初期に1台当たり約10万円の損失が生じるような状況が続いたことから「トヨタ自動車工業」側が不審に思い、購買部の担当者を当社に派遣して「ランドクルーザー」を1台分解してその原因を突き止める事態になった。 この解体調査により、当社の見積もりに車の床板という大きな部品が含まれていないことが判明し、トヨタから叱責されたものの、その分を上乗せした発注額へ調整されて採算が合うようになったのみならず、トヨタの直前の決算以降に納入した分については過去の分まで遡って上乗せして支払いを受け、業績悪化の危機から脱することになった。 こうしたトラブルを乗り越えながら、「トヨタ自動車工業」の「ランドクルーザーFJ45V型」の他に小型トラックの「スタウトRK45P型」の生産を行うようになっていった。 その結果、「トヨタ自動車工業」向けが「トヨタ自動車販売」向けを上回るようになり、自動車メーカーの一翼を担う企業へと変貌していくことになった。
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