トクサン号への発展
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販路の拡大を見込み、地元の後発2社と差をつけることをも狙った高知自工は、1952年前期に早くも土佐号の丸ハンドルモデルの開発に成功する。大型三輪トラックの操縦性改善に大いに寄与するもので、小型オート三輪の丸ハンドル本格導入の最初とされる愛知機械工業・ヂャイアントと同年での快挙であった。 ただし、シャーシベースが四輪のボンネットトラックであるため、右側丸ハンドルの三輪車仕様とすると大きな直列エンジンの搭載スペース確保が困難であり、やむなくキャビン内中央にエンジンを置いて、大きなカバーで覆った。このためこれほどの大型車でありながら、キャビンの定員は運転席と助手席の2座になっていた。このエンジンスペースは、土佐号→トクサン号の歴史を通じて最後まで変わらなかった。従って騒音・熱の車室内侵入が凄まじかったという。 この頃、「土佐号」は地元で自然発生的に「トクサン」と呼ばれるようになっていた。元々は改造車であるが故の「特殊三輪車」という呼び方が省略されたものであったようだが、高知自工はこの名前を取り込みにかかった。 前述の土佐号製作組合について報じた1953年1月の日刊自動車新聞では、高知自工が同組合を脱退し、独自開発の新型車「トクサン号KA型」を運輸省に正式完成車種として申請していることが報じられている。当時、地元の高知県陸運事務所は、「高知県の新たな産業」として期待できるトクサン号の完成車種登録申請に非常に協力的で、事務所長は四国全域を管轄する高松陸運局や東京の運輸省本省にまで認可の運動をしてくれたという。 これによって高松運輸局がトクサン号の保安検査を実施し、1953年2月9日の「日刊自動車新聞」は、トクサン号KA型が高松運輸局により、四国内での使用を許可されたと報じている。その絶大な輸送力に感銘を受けた四国島外(本州・九州)の林業関係者からも引き合いがかかるようになり、高知県陸運事務所や高松運輸局の後押しもあって、1953年中期以降は四国以外の地域でも販売・登録が可能となった。このため、四国と隣接した中国地方や九州方面にも、トクサン号を使用する例が生じたという。 KA型トクサン号は、土佐号時代の改造車然としたフロント形状を脱し、ドア付きのクローズドキャビン、フロントのボトムリンクサスペンションを覆うボンネット状のスマートなカバーを持ち、その先端にヘッドライトを備える、大手メーカーの小型オート三輪にも劣らぬ堂々たるスタイルを備えていた。公称2t積み(この時代のユーザー側では公称の二倍三倍の過積載がまかり通ってもいたから有名無実ではあったが)、全長4.9m、全幅1.86m、ホイールベース3.2mという巨体である。続いて同年4月にはロングサイズモデルのKB型も登場、こちらはホイールベースを3.55m、全長を5.48mに延長して積載力を強化した。さらにKB型は6月にフロントブレーキを追加される改良を受けたが、これはオート三輪でも極めて早いフロントブレーキ採用例である(1992年の雑誌写真では、トヨタ車の前輪ブレーキを改造したものではないかと指摘されている)。 この年、高知自工はトクサン号を月産10台ペースで生産した。相変わらず中古車改造シャーシベースとはいえ、地方の町工場レベルの企業による特殊車種の生産としては大いに成功していたと言える。
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