デザイン決定までの流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:20 UTC 版)
「ΖΖガンダム」の記事における「デザイン決定までの流れ」の解説
前作「機動戦士Ζガンダム」の放映期間中、番組延長のために20人ほどのデザイナーに声がかけられ、"NEWガンダム"のラフデザインが描かれた。 主なNEWガンダム案 αガンダム永野護案。合体変形機構を持たず、当時永野がデザインしたリック・ディアスなどと同様に背中にバインダーを背負っている。 ゴッドガンダム藤田一己デザイン。航空機形態の突撃型ゴッドバードガンダムに変形する。勇者ライディーンのパロディ。 ガンダムMk-IIIコア・ファイターを中心に合体し、装備の換装で重戦車タイプと宇宙用になる。 オメガガンダム(1)(アサルトガンダム)岡本英郎デザイン。シードガンダムを中枢にGフライヤーが合体・変形してガンダムになる。 オメガガンダム(2)明貴美加デザイン。コアガンダム(ガンダムMk-Ⅲ、上半身)とGアーマー(下半身)が合体してガンダムになる。ビームライフルや脚部の形状がすでに決定稿のデザインに近い形をしている。 ネオガンダム明貴美加案。コア・ファイターがA・Bパーツと合体してガンダムになる。AまたはBパーツ+コア・ファイターでそれぞれ2種のコア・ブースターとなり、別モードの合体でGフォートレスとなる。 1985年10月下旬の第一回デザイン会議で、約30点の候補の中から明貴のネオガンダムのデザイン案のコンセプトが採用された。 続編の制作決定後、番組のデザインはすべて永野護が担当することになり、ΖΖガンダムという名前も決まった主役機も永野がデザインすることになった。二機の飛行メカ+コア・ファイターという明貴案のコンセプトをベースに、いくつかの画稿を描いたが、永野の案はA・Bパーツの変形に問題があって立体化した場合に無理が生じるであろうとの理由からスポンサーのバンダイがOKを出さず、1986年1月に正式に降板することが決まった。 1985年の年末時点で、小林誠のところにサンライズから「TTブレーンというオモチャのプランニング会社の出したコア・ファイター、A・Bパーツによりガンダムおよび各ファイターを形成するΖΖの変形案を翌年1月6日のコンペまでに完全なものにして欲しい」という連絡が来た。初めはコア・ファイターは要らないという話だったが、あとからコア・ファイターは必要でそれ以外にA・Bパーツにもパイロットが乗って脱出が出来るようにとオファーが変わった。9日に案を提出するとバンダイから「立体の方もやって欲しい」という連絡が来て、その時に変形の修正もしてもいいということになった。15日に最終稿を提出すると伸童舎に回され、岡本、明貴、アニメーターの北爪宏幸のクリンナップを経て決定稿となった。上半身は構造から装甲までほぼ小林案のままだが、コア・ファイターと下半身は完全に明貴デザインの別物に変更された。 伸童舎(当時)の明貴は時間との厳しい戦いだったと語っているが、これはスポンサーであるバンダイのプラモデル設計スケジュールの都合であった。また、バンダイ『模型情報』によると、クリンナップしたのは北爪であるとされ、この校了がプラモデルの設計開始に間に合わず、プラモデル「1/144 ΖΖガンダム」の胸部形状が設定と異なってしまったと報じている。なお、準備稿ではGフォートレスに機首が無く、クリンナップ後にそれを知った小林が抗議した結果、サンライズの方で直して機首を追加した。 後年のインタビューで伸童舎(当時)の岡本は、本機の変形・合体システムの提案や頭部のクリーンアップを担当し、決定稿直前の頭身バランスが異なる画稿は岡本と明貴の合作であるとしている。
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