続編の制作
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原作者の林不忘は、映画の成功により続編を発表することに決めた。今度はタイトルも「丹下左膳」として、左膳が主人公であることを明確にした。当初この作品は『毎日新聞』に1933年(昭和8年)6月7日から11月5日まで連載された。途中で「城戸事件」という毎日新聞社の専務取締役改選を巡る社内抗争により中断し、城戸元亮の退職とともに不忘は毎日新聞の客員として結んでいた新聞小説の専属契約を返上し、続きを『読売新聞』で1934年1月29日から9月19日に連載した。これは柳生家に伝わる「こけ猿の壷」とそこに隠された埋蔵金の争奪戦を描いた物語であり、蒲生泰軒、日光東照宮の修理を命じられた柳生家や、左膳と友情で結ばれる柳生源三郎らの戦いが繰り広げられる。丹下左膳のキャラクターも前作のニヒルな感じから、正義の味方的要素を増した描き方をされている。 前作に続き、前年に日活を退社していた伊藤大輔が大河内の斡旋で日活に復帰した後の第2作として、大河内傳次郎で映画化し、日活および伊藤監督のトーキー第1作となった。キネマ旬報社のランキングで6位。この『剣戟篇』は当時の洋画館であった日比谷劇場でも封切られ、4集続映のヒットとなった。 1930年に不忘が『文芸倶楽部』に連載した『続大岡政談(魔像)』は、丹下左膳ものではなく、美剣士神尾喬之助の復讐譚であるが、これも連載と並行して日活・伊藤監督、大河内が神尾・大岡越前・茨左近の3役で映画化されている。また不忘と親交のあった北一輝も、丹下左膳の映画は欠かさず見ていたという。
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