デザイン決定の紆余曲折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:21 UTC 版)
「名鉄7000系電車」の記事における「デザイン決定の紆余曲折」の解説
1960年8月に入ると、デザインを検討するためにクレイモデルが3種類製作され、その後にモックアップが製作されたが、モックアップは3種類のクレイモデルのどの形とも違うものになった。さらに9月には車両のデザイン画も出来上がり、新聞にも掲載されたが、これもモックアップとは違うものになった。それらはいずれも衝撃吸収用のダンパーを覆うボンネットが突き出たスタイルで、白井の気に入るものではなかった。デザインを提案した日本車輌の担当者は「このデザインのどこが悪い」と憤ったが、白井は土川に「デザインをやり直すべき」と進言、それを受けて土川は「先頭部のデザインをやり直す」と決めた。 このため、日本車輌では日本国有鉄道(国鉄)の臨時車輌設計事務所を通じて、インダストリアルデザイナーの萩原政男に車輌のデザインを依頼することになった。プレス発表後のデザイン変更は異例のことであった。実は、萩原は小田急電鉄の特急用車両である3000形SE車の計画段階において展望車のデザインの相談を受けていたが、実現していなかった。また、国鉄の車両設計ではデザイナーの名前が出ることはなかったが、それではデザイナーの役割を世の中に認識させることはできなかった。萩原は私鉄の車両であればそれが可能であると考え、国鉄の仕事を辞めて名鉄の展望車の仕事を担当するようになった。 また、車体の色も画家の杉本健吉によって決められることになった。杉本は岸田劉生門下の画家で、名鉄百貨店開業時の包装紙や交通関係のデザインも手がけていた。杉本は当初濃い緑色を考えていたが、車両部の担当者の提案を受け、スカーレット1色とすることになった。 1960年秋には、どんな車両になるかを新聞記者が取材していた際に、親しみやすい愛称として白井が萩原と相談して「パノラマカー」と述べたところ、マスコミではこれを大見出しで報道し、たちまち「パノラマカー」という名称が広まったという。翌年6月1日の運転開始前には、名鉄は「走るパノラマ展望車」とPRし、マスコミは「パノラマ式展望車」などと報道していた このような経過を経て登場したのが、7000系パノラマカーである。
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