ショーペンハウアーによる定義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 08:07 UTC 版)
「理性」の記事における「ショーペンハウアーによる定義」の解説
ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。 理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。 一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は知覚に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。刑法など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。 そして、カントが主張するような道徳法則を指定する実践理性については全く否定している。経験的に見ても人間がそのような高尚な能力をもっていないのは明らかであるし、一見「道徳性」のように見える行動も、大抵は他者から報復を受けることへの恐怖や、刑罰による恐れなど、いわば渋々自らの欲求を抑えているにすぎないのが実際であるから。このような未来への憂慮といった抽象的認識も理性によるもので、そうであれば理性は直接的に本来の道徳性に寄与するものではない。むしろ理性(つまり抽象的認識)の使い方如何によっては、例えば大量虐殺など、計画的活動による極めて大きな悪を実行することが可能であり、歴史においてしばしばこの例が実証されている。「世界理性」などは論外であり、彼によると最も野蛮な宗教の一つであるユダヤ教の教義に基づく妄想である。
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