サイパン島増援作戦
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「松 (松型駆逐艦)」の記事における「サイパン島増援作戦」の解説
6月2日付で松駆逐艦長は、米井少佐から吉永源少佐(駆逐艦天霧沈没時の艦長)に交代した。 「松」が内海西部で訓練中の6月15日、アメリカ軍はサイパン島に上陸を開始、サイパン島地上戦がはじまった。6月17日に大本営陸海軍部が合意したサイパン島への増援輸送計画を「イ号作戦」と呼称する。第46師団隷下で北九州所在の歩兵第145連隊(長 池田増雄陸軍大佐)を、扶桑型戦艦「山城」と第五艦隊などでサイパン島に投入すると決定した。同17日夜、連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将)は第五艦隊司令長官志摩清英中将に対し、第五艦隊の横須賀集結を命じた。 6月18日、サイパン島地上戦の戦局悪化にともない、東條英機総長は「イ号作戦」を拡大し、さらなる増援部隊の投入を企図した。イ号作戦の歩兵第145連隊に加え、中国大陸所在の第9師団と第68旅団などを追加派遣することに決定し、陸軍部隊の輸送を「山城」と第五艦隊および十一水戦や内地所在艦船が担任することになった。6月19日、大本営はサイパン救援作戦を具体化していた。確保任務を「イ号作戦」、撃滅任務を「ワ号作戦」、全作戦を「Y作戦」と呼称した。陸軍は「イ」号作戦計画として大陸命第1031号(昭和19年6月19日)により、歩兵第145連隊などを第31軍に編入した。 「松」は6月18日まで瀬戸内海方面で慣熟訓練を行った後、十一水戦僚艦(長良、清霜)とともに横須賀に回航された。同海軍工廠で「松」は機銃を増設、上陸作業用の十m運貨筒を搭載した。吉永少佐(元天霧艦長)と共に内地に帰還した志賀博大尉(旧姓保坂、元天霧水雷長)によれば、「松」と「竹」は横須賀海軍工廠のポンツーンで艤装工事を行っており、吉永は松駆逐艦長として、志賀は竹艤装員(竣工後は竹水雷長)として、隣同士の艦に着任したという。本作戦関係で横須賀海軍工廠が大発動艇搭載工事もしくは機銃増備工事を実施した艦船は、戦艦「山城」、重巡「那智」と「足柄」、軽巡「木曾」と「多摩」、一水戦(旗艦〈阿武隈〉、第7駆逐隊〈潮、曙〉、第18駆逐隊〈不知火、霞、薄雲〉)、第21駆逐隊(若葉、初春)、十一水戦(軽巡長良、駆逐艦冬月、清霜、松)、その他(皐月、旗風、八十島、千鳥、海防艦と輸送艦複数隻)であった。 上記のようにサイパン島増援作戦を具体的に検討していた日本軍上層部だが、第一航空艦隊と第一機動艦隊は6月19日から20日のマリアナ沖海戦で惨敗した。日本海軍の大敗北によりサイパン島増援作戦成功の見込みがなくなり、各部は急速に熱意を失った。嶋田繁太郎軍令部総長、大西瀧治郎中将や神重徳大佐等はサイパン増援を諦めておらず、神大佐は「自分を山城艦長にしてほしい。自分がサイパンに行ってのしあげ、砲台代りになって戦闘する」と訴えた。これら多方面からの強硬意見に対し、連合艦隊は消極的であった。制空権確保の見通しもたたなかった。大本営海軍部は、作戦可能の水上・航空兵力を全て投入するサイパン奪回作戦「甲案」と、サイパン増援の断念と後方地帯強化に着手する「乙案」を準備した。6月25日に昭和天皇が臨席した元帥会議で、サイパン島救援作戦は正式に中止された。
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