サイパン島増援作戦とは? わかりやすく解説

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サイパン島増援作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:05 UTC 版)

松 (松型駆逐艦)」の記事における「サイパン島増援作戦」の解説

6月2日付で駆逐艦長は、米井少佐から吉永少佐駆逐艦天霧沈没時の艦長)に交代した。 「」が内海西部訓練中の6月15日アメリカ軍サイパン島上陸開始サイパン島地上戦はじまった6月17日大本営陸海軍部が合意したサイパン島への増援輸送計画を「イ号作戦」と呼称する。第46師団隷下北九州所在歩兵145連隊長 池田増雄陸軍大佐)を、扶桑型戦艦山城」と第五艦隊などでサイパン島投入する決定した。同17日夜、連合艦隊司令長官豊田副武大将参謀長草鹿龍之介中将)は第五艦隊司令長官志摩清英中将対し第五艦隊横須賀集結命じた6月18日サイパン島地上戦戦局悪化にともない東條英機総長は「イ号作戦」を拡大しさらなる増援部隊投入企図した。イ号作戦歩兵145連隊加え中国大陸所在第9師団第68旅団などを追加派遣することに決定し陸軍部隊輸送を「山城」と第五艦隊および十一水戦内地所在艦船担任することになった6月19日大本営サイパン救援作戦具体化していた。確保任務を「イ号作戦」、撃滅任務を「ワ号作戦」、全作戦を「Y作戦」と呼称した。陸軍は「イ」号作戦計画として大陸命第1031号(昭和19年6月19日)により、歩兵145連隊などを第31軍編入した。 「」は6月18日まで瀬戸内海方面慣熟訓練行った後、十一水戦僚艦長良清霜とともに横須賀回航された。同海軍工廠で「」は機銃増設上陸作業用の十m運貨筒搭載した吉永少佐(元天霧艦長と共に内地帰還した志賀博大尉(旧姓保坂、元天霧水雷長)によれば、「」と「竹」は横須賀海軍工廠ポンツーン艤装工事行っており、吉永駆逐艦長として、志賀は竹艤装員(竣工後は竹水雷長)として、隣同士の艦に着任したという。本作戦関係で横須賀海軍工廠大発動艇搭載工事もしくは機銃増備工事実施した艦船は、戦艦山城」、重巡那智」と「足柄」、軽巡木曾」と「多摩」、一水戦(旗艦阿武隈〉、第7駆逐隊〈潮、曙〉、第18駆逐隊不知火薄雲〉)、第21駆逐隊若葉初春)、十一水戦軽巡長良駆逐艦冬月清霜)、その他(皐月旗風八十島千鳥海防艦輸送艦複数隻)であった上記のようにサイパン島増援作戦を具体的に検討していた日本軍上層部だが、第一航空艦隊第一機動艦隊6月19日から20日マリアナ沖海戦惨敗した日本海軍大敗北によりサイパン島増援作戦成功見込みなくなり各部急速に熱意失った嶋田繁太郎軍令部総長大西瀧治郎中将神重徳大佐等はサイパン増援諦めておらず、神大佐は「自分山城艦長してほしい。自分サイパン行ってのしあげ砲台代りになって戦闘する」と訴えた。これら多方面からの強硬意見対し連合艦隊消極であった制空権確保見通しもたたなかった。大本営海軍部は、作戦可能の水上・航兵力全て投入するサイパン奪回作戦「甲案」と、サイパン増援断念後方地帯強化着手する「乙案」を準備した6月25日昭和天皇臨席した元帥会議で、サイパン島救援作戦正式に中止された。

※この「サイパン島増援作戦」の解説は、「松 (松型駆逐艦)」の解説の一部です。
「サイパン島増援作戦」を含む「松 (松型駆逐艦)」の記事については、「松 (松型駆逐艦)」の概要を参照ください。

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