サイパン攻撃での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:16 UTC 版)
サイパン島の陥落後、大本営は航空総監に対し、サイパンの飛行場を攻撃する特別攻撃隊の編成を指示した。新海がその隊長に選ばれ、第2独立飛行隊とされた。 同じ頃、同期の西尾が特別攻撃隊「富嶽隊」の隊長に選ばれた。10月、古野の元に「ニシが出発するので、直ぐに見送りに来い」と新海から電話があった。古野の顔を見た西尾は固い表情で、「元気でな」とだけ言って機に向かった。新海は黙っていた。古野が「おい新海、歴戦の彼のことだから、そう簡単には死なんだろうな」と言うと、新海は「今度は死ぬ」と言った。驚いた古野は思わず新海の顔を見つめた。古野が「いつごろ?」と問うと、新海は「あと2週間かな」と答えた。新海は富嶽隊の任務が何であるか知っていたのだ。 11月2日、新海の率いる第2独立隊はサイパンへ最初の出撃をした。新海の乗る隊長機は先頭を切って突入した。9機が出撃し、5機未帰還となった。新海は生還した。 11月6日、第2回の出撃が行われた。第1回の残存4機に予備の1機を合わせた5機であった。今回は隊長機は、あえて速度を落として一番危険な最後に突入した。第2回の攻撃で、新海隊は全機が硫黄島に生還し、少なくとも11機撃破の戦果を挙げたと報告した。 11月27日、ほぼ同じルートで第3回のアスリート飛行場攻撃が行われた。前回同様、隊長機は速度を落とし、最後尾から突入し、最後に離脱した。全機硫黄島に無事帰還し、アメリカ軍機12機以上が炎上したと報告した。 以上の活躍により、12月27日、防衛総司令官の東久邇宮稔彦王から、第2独立飛行隊に感状が授与された。その授与の際、新海は初めて身だしなみを気にした。「そっちの手袋のほうが少し白いか」と言って同期の南重義の手袋を借りて、恐る恐る司令官室に入っていった。彼の功績は昭和天皇にも知られ、単独拝謁を命じられた。新海は普段軍刀を引き摺って歩くため、拝謁の際には古野の軍刀を借りた。軍服も古野が用意し、下着類は部下が駆けずり回って集めた。すべて他人の服装を身に付け、1945年(昭和20年)2月23日午前9時20分、新海は昭和天皇に拝謁した。その模様は、新海が誰にも語っていないため、一切伝わっていない。
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