コリア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 09:40 UTC 版)
終戦後、釜山に放置された状態の「和浦丸」について多くの韓国人が復旧しようと計画したが、最終的に1947年に極東海運(극동해운)を設立した南宮錬(남궁련、ナムグン・リョン)が、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁から1948年8月15日の大韓民国独立後に海洋サルベージを行う許可を獲得した。南宮錬は、「和浦丸」のサルベージを成功させると長崎造船所に回航して船体を修理し、さらに横浜の日本鋼管鶴見造船所で機関部も整備した。南宮錬や極東海運が修理代金を工面できなかったため工事完了後も引き渡されずにいたが、南宮錬の働きかけにより李承晩韓国大統領が70万ドルの外貨融資を決め、支払いが完了した。船名を「コリア」と改めた本船は釜山に回航され、朝鮮戦争の最中の1952年10月3日に李承晩ら政府要人の出迎えを受けながら入港した。当時の韓国船としては最大で、韓国船として初めて1万載貨重量トンを超える画期的な船舶であった。 「コリア」は、韓国船として史上初の太平洋横断を経てアメリカ合衆国への商業航海をすることになった。当時の韓国には熟練の民間船員がほとんどいなかったため、船長に現役の韓国海軍大佐である朴沃圭(박옥규)が任命されたのをはじめ、46人の乗員の多くは海軍軍人であった。1952年10月21日、スクラップ1460トンを積んだ「コリア」は、李承晩大統領らにより盛大に見送られて釜山を出港した。日付変更線を越えた辺りでエンジンが不調となって13ノットの速力が半減したため、予定よりも大幅に遅れて11月25日にポートランドへ到着した。積荷を降ろしてエンジンも修理された後、「コリア」はサンフランシスコへ回航されて、南宮錬や現地の韓国総領事ら主催の歓迎式典で迎えられた。サンフランシスコで小麦8231トンと雑貨918トンを積み取ると、12月16日に出港して韓国へ帰還した。 翌1953年には韓国船として史上初の寄港を、ハンブルク、オーストラリア、マニラおよび香港で達成している。例えば、4月14日に香港へ韓国船となってからは初めて入港し、アメリカおよびオーストラリア産の穀物を荷揚げした。日本船時代に通ったニューヨーク定期航路にも就航している。定期船として8年間活躍した後、不定期船に格下げとなるもさらに16年間使用された。南宮錬と李承晩による「コリア」の取得は、韓国の海運業発展の出発点と評価されている。「コリア」の船影は第一次経済開発五カ年計画の記念切手の意匠にも選ばれた。38年の船齢を終えて本船が解体されたのは1976年8月であり、Dongkuk Steel Mill Co., Ltd.により釜山で解体された。
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