コブラ台風
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「コブラ台風」の解説
詳細は「コブラ台風」を参照 12月17日から18日にかけて、ミンドロ島上陸作戦の支援を行っていたハルゼーの米海軍機動部隊がフィリピン東方沖で強い台風に遭遇し沈没3隻、損傷9隻、航空機146機喪失の被害を受けた。これにより年末まで米艦隊の活動が低調になった。
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コブラ台風
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「ハル (DD-350)」の記事における「コブラ台風」の解説
「コブラ台風」も参照 戦線に戻ったハルは、第3艦隊(ウィリアム・ハルゼー大将)に迎え入れられる。11月20日に真珠湾を出港し、ウルシー環礁に到着後、補給支援担当の第30.8任務群を護衛することとなった。12月10日、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)はミンドロ島の戦いの支援のためウルシーを出撃し、ハルも僚艦エールウィン (USS Aylwin, DD-355) 、デューイ(USS Dewey, DD-349) およびモナハン (USS Monaghan, DD-354) とともに第30.8任務群の護衛でウルシーを出撃した。第38任務部隊の洋上燃料補給は12月17日に予定されていたが、その当日からコブラ台風の中に入り始め、12月18日にかけて大きく翻弄されることとなった。大艦隊が90ノットを越える暴風と低気圧の中をさまよう結果となり、その中でハルは針路を140度にするよう命じられたが、暴風はついに100ノットを越えるにいたった。ハルは、17日までに艦艇あての郵便物の大半を配達していたが、8袋の郵便物が残っていた。12月18日11時の時点で、ハルは鉄あるいは山のような高波に翻弄され、80度ないし100度に針路を固定したものの、ホエールボートと爆雷が流出した。傾斜は70度を記録し、海水が操舵室に流れ込み始めた上に暴風がハルの行き足を止めた。十分な荒天対策をとっていたとはいえ激しい波風の前には無力であり、ハルのマークス艦長は次のように証言した。「ハルの上部構造物は80度にまで傾斜した。私は海水が艦橋に流れ込むまで頑張っていたが、退艦後にハルを見てみると、海上で大きく揺さぶられていた」。海水を注入すれば70度以上の傾斜から逃れた可能性もあったが、乗組員は「規定どおりのバラストを搭載しているから大丈夫だろう」と高をくくっている節があった。やがて海水流入が限度に達し、ハルは85度から90度以上の傾斜を記録して横転し、沈没していった。 護衛駆逐艦タッバーラー(英語版) (USS Tabberer, DE-418) などの艦艇および航空機は大規模な捜索を行い、マークス艦長以下士官7名を含む68名の乗組員を救助した。救助の内訳はタッバーラーが41名、護衛駆逐艦ロバート・F・ケラー(英語版) (USS Robert F. Keller, DE-419) が13名、駆逐艦コグスウェル(英語版) (USS Cogswell, DD-651) が1名、ブラウン(英語版) (USS Brown, DD-546) が13名であった。艦船が鉄の棺おけになるまでの間に、司令官が安全なコースにつかせる義務があったのではないかという議論が生じたが、上層部があいまいな形で議論を終わらせた。コブラ台風の一件はハーマン・ウォークが書いた『ケイン号の叛乱』の、特にクライマックスの部分にアイデアを与えた。また、副長は作家、ジャーナリストのグレイル・マーカスの父である。 ハルは第二次世界大戦中の功績により10個の従軍星章を受章した。
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