コウルリッジ周辺との交遊
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「トマス・プール」の記事における「コウルリッジ周辺との交遊」の解説
1794年、プールの元に、彼と政治的見解が近いコウルリッジとロバート・サウジーがやってきた。二人は自ら考案したパンティソクラシー(構成員全員による自治社会)と私有財産制廃止という考えをもち、それらを実現するために、親類や友人たちだけのコミューンをケンタッキーに作ろうと計画していた(後に計画地をペンシルヴェニア州のサスケハナ川、さらにイギリスのウェールズに変えた)。プールは、この計画に対して、成功を見込んでいたわけではなかったが(プールはその点で実務家的気質の持ち主であった)、その政治的理想には大いに共鳴した。ただし、プールはコウルリッジの性格と「輝かしい能力」に感銘をうける一方、サウジーのことは「普通の少年」だと感じていた。1795年再びコウルリッジが訪れたのをきっかけにプールは彼を称える詩を書き、翌年には奴隷制反対の記事を書いてコウルリッジの『ウォッチマン』(1796年出版)に掲載された。『ウォッチマン』が商業的に失敗した際には友人たちとともにコウルリッジに経済援助を行った。同年末、妻と第一子ハートリーと田舎暮らしを望んでいたコウルリッのために、ネザー・ストーウェイのコテージを見つけてやった。 門を挟んでコウルリッジの新居の庭とプールの庭が繋がっており、コウルリッジはたびたび訪れてはプールの書斎で読書や著述を行った。『このシナノキの木陰、私の監獄』("This Lime-Tree Bower My Prison")という詩はプール宅の庭で作られたものである。プールは過激派をかくまっているという理由で、さらに1797年にはコウルリッジの友人ワーズワスとその妹ドロシーのために家を探そうとしていたために、地元でも警戒される存在となっていた。彼はワーズワス兄妹に数マイル離れたアルフォクストン・ハウスを用意したことで、コウルリッジとワーズワスが毎日のように意見交換ができた。プールはワーズワスに対しては初対面の際、これまで出会った中でもっとも偉大な人物だと感じ、ワーズワスも後々プールの廉潔さ、慈善精神、誠実さに感銘をうけるようになった。プールがワーズワスに語ったサマセット生活のエピソードは後に、「サマセット州の悲劇」("Somersetshire Tragedy", 未発表)、「哀れなスーザン」("Poor Susan")、「白痴の少年」("The Idiot Boy")、「ティルベリー谷の農夫」("The Farmer of Tilbury Vale")、「群れの最後の一匹」("The Last of the Flock")の中で現れることとなった。またワーズワスによれば「マイケル」("Michael")を書いている際にはプールを念頭に置いていたという, 。プールは二人の詩人の関係を深め『抒情民謡集』が生まれるのに一役買ったのだが、それゆえに自身はコウルリッジとの付き合いが薄れてしまったため、彼はコウルリッジとの友人関係においてワーズワスをライバル視していた時期があった。1798年コウルリッジとワーズワスがドイツに旅立つにあたり、コウルリッジは妻サラの加護をプールに頼んだ。コウルリッジは翌年帰国したが、そのまま湖水地方に向かい、ワーズワスと再合流した, 。 以後、二人の詩人との付き合いは手紙や時折の訪問によって続いた。コウルリッジはプールが「占有者と農夫たち」("Monopolists and Farmers")と呼ばれるエッセイの連載を『モーニング・ポスト』紙に書くにあたってサポートをしたが、両者の関係はかつてほど親密になることはなかった。ストーウェイ時代の交流を通じてプールは文学・思想方面での人々―例えばチャールズ・ラム、ウィリアム・ハズリット、ジョン・セルウォール、ハンフリー・デイヴィ―との付き合いもするようになった。反対に、コウルリッジに対しては同情、実務的援助、思慮深い助言をもってその恩恵に報いた。
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