グルジア問題とは? わかりやすく解説

グルジア問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:52 UTC 版)

ブドゥ・ムディヴァニ」の記事における「グルジア問題」の解説

詳細は「グルジア問題」を参照 同年から6月11日から翌1922年まではグルジア共和国対外貿易人民委員1921年7月7日からはグルジア革命議長1922年1月まで、1921年7月からはグルジア共和国人民委員会議議長1922年4月まで務め1921年8月から翌年までは再度ロシア共産党中央カフカース局に属した1921年からはグルジア共産党中央幹部会員にも就いた。 こうしてグルジア共和国指導部上り詰めたムディヴァニであったが、同時期のザカフカースでは、カフカース責任書記セルゴ・オルジョニキゼによる、モスクワすら危惧するほど急速・強権的な、ザカフカース3国の政治的国家的統合推進されていた。このオルジョニキゼによるザカフカース連邦構想対す反対急先鋒立ったのが、ムディヴァニであった(アレクサンドル・スヴァニゼ(ロシア語版によれば、「セルゴブドゥ活劇終始しない中央委の決議一つとしてな」かったという)。 さらに同時期には、ソビエト連邦結成におけるスターリンの「自治化案」(ロシア共和国傘下に他の諸国家が自治共和国として加入するというもの)に対しても、ムディヴァニはグルジア共和国代表として強硬な反対姿勢取った(この時、ムディヴァニは「ケケの家にガードマン付けろ。彼女にもう一人スターリンを産ませないために」とのジョーク飛ばしている)。ムディヴァニら「グルジア反対派」(フィリップ・マハラゼ、セルゲイ・カフタラゼ(英語版)、ミハイル・オクジャヴァ、コテ・ツィンツァゼら)の訴えはやがてウラジーミル・レーニンも知るところとなり、レーニンスターリン対す不信は後の「レーニン遺書ロシア語版)」問題へと波及してゆくこととなる。 しかし結局はグルジア反対派多数占めていたグルジア共産党中央委の1922年10月22日総辞職と、オルジョニキゼ配下ベソ・ロミナゼ(ロシア語版第一書記による新体制発足により、グルジア反対派影響力失ったグルジア反対派拒絶したザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」は同年12月13日成立しグルジア反対派は翌1923年4月ロシア共産党第12回大会ロシア語版)でのスターリン演説で「反ロシア排外主義」として片付けられた。

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グルジア問題

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フィリップ・マハラゼ」の記事における「グルジア問題」の解説

詳細は「グルジア問題」を参照 マハラゼは1921年2月16日から7月7日まではグルジア革命議長同年から翌1922年2月まではグルジア社会主義ソビエト共和国農業人民委員、翌3月7日から10月までは全グルジア中央執行議長就いた。こうしてグルジア共和国指導部上り詰めたマハラゼであったが、同時期のザカフカースでは、カフカース責任書記セルゴ・オルジョニキゼによる、モスクワすら危惧するほど急速・強権的な、ザカフカース3国の政治的国家的統合推進されていた。 マハラゼはロシア共産党中央宛て報告書書き送りグルジア共産党グルジア革命委を無視したカフカース局の独断専行によるザカフカース連邦構想は「大衆極めて不人気で、全く大衆から遊離したもう一つ余計な官僚主義機構創るだけ」の、「民族主義的志向弱めるではなく、かえって強化」するものである強く批判したのみならず、「赤軍進撃開始されたとき、グルジアの党細胞はどれ一つとして党員誰一人として、進撃意図目的について通知されて」おらず、「グルジアへの赤軍進撃ソビエト権力樹立宣言は、外国占領という明白な性格をとってしまった」と、かつてオルジョニキゼ指揮した赤軍グルジア侵攻英語版そのものにも批判加えている。 ザカフカース連邦構想反対するマハラゼらグルジア共産党中央委員ブドゥ・ムディヴァニ、セルゲイ・カフタラゼ(英語版)、ミハイル・オクジャヴァ、コテ・ツィンツァゼらの「グルジア反対派」)の訴えはやがてウラジーミル・レーニンも知るところとなり、オルジョニキゼ擁護したスターリン対すレーニン不信は後の「レーニン遺書ロシア語版)」問題へと波及してゆくこととなる。 しかし結局はグルジア反対派多数占めていたグルジア共産党中央委の1922年10月22日総辞職と、オルジョニキゼ配下ベソ・ロミナゼ(ロシア語版第一書記による新体制発足により、グルジア反対派影響力失ったグルジア反対派拒絶したザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」は同年12月13日成立しグルジア反対派は翌1923年4月ロシア共産党第12回大会ロシア語版)でのスターリン演説で「反ロシア排外主義」として片付けられた(マハラゼは、この大会ザカフカース地方代表として選出され唯一のグルジア反対派であった)。

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