グルジア問題
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「ブドゥ・ムディヴァニ」の記事における「グルジア問題」の解説
詳細は「グルジア問題」を参照 同年から6月11日から翌1922年まではグルジア共和国対外貿易人民委員、1921年7月7日からはグルジア革命委議長を1922年1月まで、1921年7月からはグルジア共和国人民委員会議議長を1922年4月まで務め、1921年8月から翌年までは再度ロシア共産党中央委カフカース局に属した。1921年からはグルジア共産党中央委幹部会員にも就いた。 こうしてグルジア共和国指導部に上り詰めたムディヴァニであったが、同時期のザカフカースでは、カフカース局責任書記セルゴ・オルジョニキゼによる、モスクワすら危惧するほど急速・強権的な、ザカフカース3国の政治的・国家的統合が推進されていた。このオルジョニキゼによるザカフカース連邦構想に対する反対の急先鋒に立ったのが、ムディヴァニであった(アレクサンドル・スヴァニゼ(ロシア語版)によれば、「セルゴとブドゥの活劇に終始しない中央委の決議は一つとしてな」かったという)。 さらに同時期には、ソビエト連邦結成におけるスターリンの「自治化案」(ロシア共和国の傘下に他の諸国家が自治共和国として加入するというもの)に対しても、ムディヴァニはグルジア共和国代表として強硬な反対姿勢を取った(この時、ムディヴァニは「ケケの家にガードマンを付けろ。彼女にもう一人スターリンを産ませないために」とのジョークを飛ばしている)。ムディヴァニら「グルジア反対派」(フィリップ・マハラゼ、セルゲイ・カフタラゼ(英語版)、ミハイル・オクジャヴァ、コテ・ツィンツァゼら)の訴えはやがてウラジーミル・レーニンも知るところとなり、レーニンのスターリンに対する不信は後の「レーニンの遺書(ロシア語版)」問題へと波及してゆくこととなる。 しかし結局は、グルジア反対派が多数を占めていたグルジア共産党中央委の1922年10月22日の総辞職と、オルジョニキゼの配下ベソ・ロミナゼ(ロシア語版)第一書記による新体制発足により、グルジア反対派は影響力を失った。グルジア反対派が拒絶した「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」は同年12月13日に成立し、グルジア反対派は翌1923年4月のロシア共産党第12回大会(ロシア語版)でのスターリン演説で「反ロシア的排外主義」として片付けられた。
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グルジア問題
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「フィリップ・マハラゼ」の記事における「グルジア問題」の解説
詳細は「グルジア問題」を参照 マハラゼは1921年2月16日から7月7日まではグルジア革命委議長、同年から翌1922年2月まではグルジア社会主義ソビエト共和国農業人民委員、翌3月7日から10月までは全グルジア中央執行委議長に就いた。こうしてグルジア共和国指導部に上り詰めたマハラゼであったが、同時期のザカフカースでは、カフカース局責任書記セルゴ・オルジョニキゼによる、モスクワすら危惧するほど急速・強権的な、ザカフカース3国の政治的・国家的統合が推進されていた。 マハラゼはロシア共産党中央委宛てに報告書を書き送り、グルジア共産党やグルジア革命委を無視したカフカース局の独断専行によるザカフカース連邦構想は「大衆に極めて不人気で、全く大衆から遊離した、もう一つ余計な官僚主義的機構を創るだけ」の、「民族主義的志向を弱めるのではなく、かえって強化」するものであると強く批判した。のみならず、「赤軍の進撃が開始されたとき、グルジアの党細胞はどれ一つとして、党員は誰一人として、進撃の意図と目的について通知されて」おらず、「グルジアへの赤軍の進撃とソビエト権力の樹立宣言は、外国の占領という明白な性格をとってしまった」と、かつてオルジョニキゼが指揮した赤軍のグルジア侵攻(英語版)そのものにも批判を加えている。 ザカフカース連邦構想に反対するマハラゼらグルジア共産党中央委員(ブドゥ・ムディヴァニ、セルゲイ・カフタラゼ(英語版)、ミハイル・オクジャヴァ、コテ・ツィンツァゼらの「グルジア反対派」)の訴えはやがてウラジーミル・レーニンも知るところとなり、オルジョニキゼを擁護したスターリンに対するレーニンの不信は後の「レーニンの遺書(ロシア語版)」問題へと波及してゆくこととなる。 しかし結局は、グルジア反対派が多数を占めていたグルジア共産党中央委の1922年10月22日の総辞職と、オルジョニキゼの配下ベソ・ロミナゼ(ロシア語版)第一書記による新体制発足により、グルジア反対派は影響力を失った。グルジア反対派が拒絶した「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」は同年12月13日に成立し、グルジア反対派は翌1923年4月のロシア共産党第12回大会(ロシア語版)でのスターリン演説で「反ロシア的排外主義」として片付けられた(マハラゼは、この大会にザカフカース地方委代表として選出された唯一のグルジア反対派であった)。
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