「民族主義的逸脱主義」対「大ロシア主義」
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「グルジア問題」の記事における「「民族主義的逸脱主義」対「大ロシア主義」」の解説
対立はグルジアのボリシェヴィキ指導部内に穏健派と強硬派を生み出した。論争はスターリンがすべての労働者組織と労働組合をボリシェヴィキ党委員会に従属させるのに先立って起こった。スターリンはグルジア・ソビエト政府が政治的反発に対して穏健な扱いをし、モスクワからの独立を維持していることに満足せず、1921年7月にグルジアの首都トビリシへ赴いた。労働者会議(workers' assembly)を招集した後、スターリンは、グルジアの民族自決主義の排除を狙ったプログラムの大要を説明するスピーチを行ったが、聴衆からは野次られ、同僚からは敵意のこもった沈黙を受け取った。続く数日の間に、スターリンはマハラゼを、信念が不十分である(inadequate firmness)という理由でグルジア革命委員会から放逐し、代わりにブドゥ・ムディヴァニをあて、またグルジア指導層に「民族主義のヒドラを粉砕せよ」という指令を出した。マハラゼ支持者たち(グルジアのチェーカー長官Kote Tsintsadzeと部下たちを含む)は同様に解任され、より非情な将校であるKvantaliani、Atabekov、ラヴレンチー・ベリヤに置き換えられた。 しかし一年以内に、スターリンはムディヴァニやその仲間と対立状態になった。この諍いの最も重要な点の一つは、諸ソビエト共和国の統一計画におけるグルジアの地位という問題であった。スターリンを強力な後ろ盾としたセルゴ・オルジョニキーゼ率いるモスクワの使節団は、ザカフカースの三共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)に対して、統合した連邦国家としての地位でソビエト連邦に加入することを強く要求したのに対し、グルジア側はグルジアが単独で国としての同一性を維持し、統一されたザカフカース連邦としてではなく直接ソビエト連邦の一員となることを望んだ。スターリンと部下たちは、グルジアの地元共産党員たちが自己中心的な民族主義を唱えていることを告発し、彼らに「民族主義的逸脱主義者」("national deviationists")というレッテルを貼った。それに対して、グルジアは「大ロシアへの盲目的愛国主義」("Great Russian chauvinism")という非難で応じた。レーニンは突然スターリンの立場を擁護し、ザカフカース諸国の政治的・経済的統合への支持を表明するとともに、グルジア指導者たちに「モスクワの弱い物いじめの戦術だ」(Moscow's bullying tactics)という非難を退けることを伝えた。 この対立は1922年11月に頂点に達した。このときオルジョニキーゼはムディヴァニグループのメンバーへの物理暴力に及び、言い争っているときに相手に一撃を加えた。グルジア指導者たちはレーニンに対してこのことを抗議し、数々の暴虐のリストを提出した。この中にはオルジョニキーゼが関わった悪名高い事件も含まれていた。
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